SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

続き

ブサイク、カッコ悪いことといじめの続きです。このテーマのポイントは

①ブサイク、カッコ悪いからいじめられるという公式は多分ほとんど誤り

②しかしブサイク、カッコ悪いことといじめは親和性はある 

③根本的な原因は大体の場合「3つの理由」にある

④ブサイク、カッコ悪いことは一時的には不利にもなりうる。しかしそれを抜ければ普通の人にはないプラスを得ることができうる

でした。

前回で一応③まで説明したので、今回は④を説明します。

 

まあ前回から「ブサイク」とか「カッコ悪い」とか単純に書きまくってます。それで気を悪くした方もいるかもしれません。そうです、そうなんです、あなたの(仮にいるとして笑)その感覚です。「ブサイク」とか「カッコ悪い」というのは世間が貼るよくわからないレッテルに過ぎず、ブサイクカッコ悪いの前にその人はその人なのです。◯◯君はブサイクでもカッコ悪いでもなく◯◯君であり、△△さんは△△さんなのです。

これは逆らいようがない事実です。生まれた時からそうなっている。おそらく遺伝子工学のレベルで、そうでしょう。「ブサイク」とか「カッコ悪い」とか言う場合、◯◯君は◯◯君であるという一番根本的な事実を簡単に飛び越えてしまってます。しかも不利な価値観を吹き入れている。だから腹が立つのです。気を悪くしてしまうのです。しかしあなた(仮にいるとして笑)のその感覚、感情を時に自分で押し殺してしまうんです。それが「自分はブサイクだからいじめられる」「カッコ悪いから友達もできない」などの弱音です。この弱音は一時的には自分に優しいかもしれませんが、人の前進やレベルアップを阻害してしまうものであると思います。

 

権力志向といじめの観点からわかるように、いじめは友達関係や腕力や度胸の強さにかなり影響を受けます。友達が多くてケンカも強ければいじめられることは基本ないでしょう。そしてこれの逆も、危険性としては言えると思う。友達が少なく或いはほとんどおらず、ケンカも弱ければ、いじめられる潜在的危険性が結構あると思う。

友達がいない、ケンカが弱い、その自己認識は自分にとってきついかもしれません。何故友達ができないのかなあ、性格が悪いのかなあ、自分は変わりすぎてるのかな、そういう運命なのかなあとか考え出したらどんどん深淵に引き込まれてしまいそうです。そしたらもう「自分はブサイクだからいじめられるんだ」「俺はダサいから」とか思い、そこで止めてた方が楽なのかもしれません。

しかしある程度人生を過ごしてくればわかるのですが、友達が少ないとかいないということは別にそこまでマイナスではないと思うのです。大人になればよくいます、やたら知り合いが多くて、それを自慢するような人。明確に自慢したら嫌われそうなのでしないけど自慢したそうな人。しかしそういう人がいい評価を受けてるかと言えばそうでもありません。評価を受けてる人は友達が多い以外のところで見るべきものがある人で、評価を受けてないのは友達が多いだけの人です。やはり友達が多いか少ないか自体にはほとんど意味がないのだと思います。

学校や職場は閉じた世界ですので、その中では友達の多い少ないはいろんな面で影響を持ってきます。しかしいじめとの関連で言えば、そこで卑屈になるかどうか、ここに大きな分岐点があると思うんです。卑屈になればやはりいじめられやすくなる。野性の動物の間でもいじめがありますが、その種類のいじめに似てるんですかね。権力のある者が権力のない者を痛め付けて、己の優越性を感じる快感を得るみたいな。卑屈になるのはいじめる側からすれば一種のokサインに見えるのかもしれない。だからどうでもいいからまず卑屈にならないことが重要なのではないかと思います。

でもいじめが始まってたらもうどうしようもないかもしれない。今更毅然とすれば却ってひどくなるかもしれない。そういう時は本当辛いかもしれない。しかし私達は人間です。動物は認識力や想像力が基本強くないので事態に巻き込まれるだけですが、人間はその事態の真相や理由を知ることができます。それを知ることは痛みを柔らげるだけでなく、次なる未来を示す光ともなり得ると思うのです。例えば友達が少ないどころじゃなく一人もいない、このハードモードであるとします。学校や職場で居場所がないような感覚です。休み時間でもすることがない。口をきくということがないみたいな。しかも公的な目がないところでいじめる奴に会えばまた変なことされる。これは確かに辛い、たまらないものだと思います。しかしそれでも自分は生きてるんです。その学校でも職場でも。心臓も打ってるし、知覚も記憶もある。人間が生きて精神活動もするにはものすごい機構が必要なんですよ。数えられないくらいの細胞が動く、しかも正確に動く必要があるんです。ある意味奇蹟です。それは自分の大事な人が死んだときわかると思います。その忌まわしい学校や職場でも自分は生きてるんですよ。そう考えれば何だか自分が少しかわいく思えませんか?そして家に帰ったら自分の好きなことに時間を使ったりもできる。食べる物も一応ある。着る服もある。寒ければ暖房をつけたりできるし、暑ければクーラーもある。ならばいいじゃないですか。友達が一人もいなくとも、仮にいじめられていようとも、それでその人自身が奪われるということにはならないんです。どうしても耐えられなければやめてしまえばいい。学校など行かなくても思うほどの不利益はありません。重要なのは生きていく力であり、それがなければ学校に全部行き結構いいレベルの大学を出たとしても、結構厳しいです。また職場でも、本当にどうしようもなくなれば生活保護があるんです。生活保護に安住することにはいろいろな意見もありましょうが、苦しい時に一時的に生活保護に頼るのは恥でも何でもないと思います。

そして生きていく力を得るためにまず有用なのが自分を愛することだと思います。自分を愛することにより、自分に興味が持て、自分の強味がわかり、それが素質の発見につながります。それがどのように職業に結び付くかと言えば、また果てしなく広大なテーマに入ってしまうので今日は書きませんが、友達がいるとかいないとかが本質的な問題でないことは感覚的につかんでもらえるのではないかと思います。

自分はブサイク、カッコ悪いからいじめられると早合点することはある意味楽ですが、全てをそこでストップさせてしまう。多分ブサイク、カッコ悪いからいじめられるよりは、友達が少なくケンカも弱いからいじめられる、こう思った方が正しいことが多いと思います。しかし友達が少ないことは稀な個性を持ったことの裏返しであることも少なくないと思う。そこに生きるヒントが隠されているのではないでしょうか。そこにある自分の個性を伸ばせば普通の人には味わえない人生を作れるかもしれません。

 

今回はちょっと適当に書きすぎたかもしれませんが、「誤解を受けない」ことをモットーにすれば、すごく回りくどくて結局よく伝わらないものになりそうだったのでこう書きました。でもその分、何か本とかには書いてないようなことも書けたと思います。

最後に今日書いていることの歴史上の一例を挙げましょう。

現在フランス国民に一番尊敬されている人は誰か知ってますか?フランス国民だけでない、全世界に多くのファンを持っている人です。ナポレオン・ボナパルト、いわゆるナポレオン一世ですね。でもナポレオンは10代の頃入った陸軍士官学校ではほとんど1人か2人しか友達がいなかったんですね。ナポレオンは地中海に浮かぶコルシカ島という所から出てきたんです。超田舎で言葉のイントネーションもおかしい。そして当時の絵が残っているのですがナポレオンは色が黒くて背が低い。当然メジャーなグループには属さず、どちらかと言えばクラスメートにバカにされるような存在でした。しかしナポレオンはそこで腐ったりしなかった。「俺はブサイクだからいじめられるんだ」とか「俺は友達がいない。価値のない存在なんだ」とかは言いませんでした。士官学校時代はともかく自分が好きだった数学、歴史、地理の勉強研究をしました。それが後のナポレオンの想像できないくらいの飛躍の基礎の一つとなったことは少しナポレオンのことを勉強すればわかります。まあナポレオンは時代の落とし子でもあるので、誰でもナポレオンのようになれるというわけではありませんが、人生の方向は自分で選べることの一例を示すことはできると思います。世界で何番くらいに尊敬されているような人でもそうなんです。友達がいないとかいじめられてるとかで今は辛い人でも大きく羽ばたくことはできうると思うんですね。