SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

農民気質の続き

農民気質の現れ方にはいろいろあると思うけど、いじめとの関連で重要なのは次の2つだと思う。

①違うものを嫌う。②憶測で動く。

 

昔の農村は過酷な自然と戦ってきた。また横暴な統治者というのも少なくなかっただろう。だから一致団結というのが非常に重要だった。腹の中でも違うことは考えない方がいい。心は表情や行動に出るからね。特にいざという時の行動には出やすい。だから同じ考えを持った人は「仲間」であり、違う考えを持ってる人は「ちょっと変わった奴」、そしてその度合いが強ければ「村八分」。昔の日本では個人の尊厳とか全く知らないものだったし、本質的な発展のためには異質なものが必要とかいうことも知らなかった。だから違う考えを持った人は集団の和を乱すだけの存在なんだよ。違う考えを持つ者は単なるやっかいであり、嫌われた。農民気質においては他と違わないという本来消極的な基準が、いい人を決める積極的な基準として作用しやすいところもあった。これが大体①の説明。

 

でもいじめとの関連でより重要なのは②と思うんだよな。憶測で動く。

農村ではみんなが協力しなきゃならない。だから「表面上の平穏」というのが非常に重要になる。違う者は嫌うとか言っても、一人一人が別の人間なんだから完全な一致は望めないことはみんな何となくわかっている。だから「表面上の平穏」で満足しなければならないのだが、これは必要なんだ。表面上の平穏があるから一応みんな協力して、生産ができる。

だから表面上の平穏があればまあいいんだけど、それは仕方なしに選んでいる不安定なもの。表面上の平穏を維持しつつ将来の争いの種を排除せねばならない。そこで登場するのが「憶測」なんだよ。例えば「あの人はああしてるけど実は~~と思っている」とか「あいつは前◯◯とか言っていた。あいつは本当は△△と思ってるよ」とか。それでその認識に応じた態度行動をとる、これが「憶測で動く」ということ。

日本は島国なのでこれが普通と思ってるかもしれないが、多分普通ではない。むろん普通の推認作業なのでこれは誰でもやる。だから程度の差とは言える。しかし例えばロケットの研究で世界的に結構有名だった糸山英夫教授がアメリカのシカゴ大学で講義した時、生徒が途中からどんどん立ち上がって意見を言い、しかも反対意見の方が多かったので大変だったと。似たようなことは他のアメリカの大学でもよくあったと。でも日本の東京大学では何年も教壇に立ったんだけどそういうことは一度もなかったって。学生は黙々とノートを取ってるだけで、こちらから「何か質問は?」と水を向けても聞き損なった学生が確認のために手を挙げるだけだったと。

意見の表明もしないし、意見を求めない、ここに違いがある。アメリカじゃわからなければまず聞くんだよ。自分の意見を表明し、相手の意見を求める。これはヨーロッパでも同じ。しかし日本では自分の意見も表明しないし、相手の意見も求めない。相手の意見を聞いた上で判断するのと意見も聞かずに判断するのには差があるよね。これが、「空気を読むことの必要性」が特に日本では強いことにも繋がるのかもしれない。むろんアメリカやヨーロッパでも空気を読むことの必要性はあるけど、日本ほどウェットではない。そういう意味では日本人は人の文句を陰で言うことが非常に好きなような気がする。アフリカ研究で有名な白戸圭一氏も日本のインターネット空間の暴力性は異常と言ってる。インターネットで人を罵倒したり貶めたりするのは陰口と一緒だから。実際話せばそこまで対立的でないということがわかるのに、それをやらないで決めるからそうなりやすい。

でも僕はアメリカやヨーロッパが良くて日本がダメだとか言ってるんではない。だってそんなこと言ったら現実的に効果的なブログにはならないから。例えば明日から日本人はダサいとか言ってどんなところでもまず自分の意見を表明し相手にも意見を求めるとかしてたら、バリバリいじめられてしまう可能性が高い。日本がこうなるのには理由があるんだよ。前項でも書いたけど、昔は機械もない、肥料もない、科学的知識もほとんどない、社会保障もない。強い品種なんてものもなかったし、経済機構が弱かったので豊作の時に儲けて貯金するなんてこともできなかった。そしてお上には武士という者がおり、ちょっと変なことわやったら日本刀でぶった切られたりしていた。そんな中でこの自然災害も多い日本で毎年食えるだけの確実な生産をしなくちゃならなかった。その状況下では違う者を排除し、表明上の平穏と争いの種排除を両立させるものとしての「憶測で動く」ことが必要だったと思うんだ。

 

でも今は昔の厳しい農村社会じゃないんだな。

ちょっとみんなと違う人に対して、「あいつ変だよね」「キモいよね」とか言うことはこのリアルな21世紀でもよくあると思う。でもちょっとみんなと違うというだけで他の人にそういうことを言うのって、まんま昔の日本の百姓じゃない?別に違っててもいいじゃん。だって性格とか感覚が違うのは当たり前だし、またそういう異質なものがあるからこそ発展が生まれるんだよ。でも違ってたら多分落ち着かないんだよね。僕も日本人だから結構わかるところもあります。落ち着かないし、からかいたくなる。その心の動きは一応わかる。まあ今実際いじめられている人には不謹慎だと言われるかも知れないけど、そういう人も仮に今いじめられてないとして考えてみてよ?いじめられてない、みんなとうまくやっている、そして集団にちょっと変わった子が入る。「何?あの人少し変わってるよね」とか言ってクスクス笑いたくならないだろうか。ちょっと何かの偶然で素っ気ない態度されたら「あいつふざけてんな」と若干思わないかなあ?少なくともその心の動きは一応わかる人が大半だと思うのよ。多分DNA引き継いでるんだよ。

でも今の日本人は自分を百姓とは思ってないし、思いたくない。だからいじめの根底にこの農民気質があると知ることはいじめをなくすために有効と思うんだ。いじめている側も「キモい」とか「ふざけてる」とか言う時に、ひょっとしたらこれは農民気質の名残じゃないのかと思えばストップがかかりやすい。そしていじめられている側も「キモい」とかネットで言われても、これは昔の百姓の人達が言ってることと大差ないとわかれば、心傷付く度合いは減ると思うんだ。かなり減ると思う。

このようにいじめの根底に第三のパワーとして農民気質があると知ることは役に立つと思うんだな。