SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

いじめをする人

今日はいじめをする人ってどういうものなのかについて考えてみたいです。私のブログはいじめをする人とか無関心な人に対する敵意を書いていることが比較的少ないと思う。ともすれば彼等彼女等に迎合するのを勧めるようにも読めるところもあるかもしれません。もちろん私はそう思っていません。いじめをする人は本当どうなんかねと思うし、無関心な人も良くないですね。しかし彼等彼女等を非難するだけては上手く行かないとも思ってる。だから今日はいじめをする人に対する私のスタンスをまず書き(無関心な人については後日書きます)、なぜ非難するだけては上手く行かないのかも書きます。これは一つの戦略にもなり得ます。

 

まずいじめをする人は悪いと思います。良くないを通り越すと私は思う。何故かと言えば、いろいろあるけど一番大きいのは理由もなく精神的に傷付けるからです。その人の尊厳を傷付けると言うかね。

まあ良く考えれば人間はそんなに善でもいられないと思うんです。例えばとんかつ食ったりから揚げ食ったりしますよね。でもあれ豚とか鶏とかを殺して食ってるんです。子豚とか飼ったりした人はわかると思うけど豚も生命なんですね。

だから肉食は良くないとか言ってヴィーガンになったりする人もいますが植物だって生命だし、作物を作るためには農薬で虫を殺したりしなくちゃならない。大体道を歩いただけでアリンコ踏んだりしてるよね、多分。だからとどのつまり人間が生きてたら他の生命を奪わなきゃいけないのね。他の生命を奪わないことが善とすれば人間は善ではいられない。おそらくは他の生命を奪う=悪ということではないと思う。生命はそこまで至上の価値ではない。だから生命はすぐに奪われる。私達だって例外じゃありませんよ。そりゃあいつかは死ぬし、もしかしたら交通事故とか地震とかで死ぬかもしれない。しかしそれでも世界は回る。生命って次から次へと生まれ、受け継がれる。だから生命が至上の価値で、生命を奪う=悪ということはないと思う。

でも生命というのは天から与えられたものでそれを意味もなく奪うのは良くないですよね。で精神を傷付けるというのは生きながら生命を奪うようなところがありますよね。ここでやっといじめの話に戻るんですが(笑)いじめが何故悪いかと言えばここにあると思う。いじめられた人は精神的に殺されるような気がする、ここがいじめの一番いかんところだと思うんです。これが他人を傷付けるということです。よく軽く「他人を傷付けるのはいけない」とか言うけど、そこにはかなり本質的なものがあると思うんだけどな。

まあお金を取るとかぶん殴るとかがあればそれも相当きついが、どんないじめにも共通することとして他人を傷付けるということがあるよね。しかもとんかつ食べたり野菜サラダ食べたり道を歩いたりという避けられない理由もなくですよ。ここも大きいね、と言うかここも肝なのかもしれない。

理由もなく他人を傷付ける、これがいじめの本質とすればいじめをする人は非常に低級だと思います。権力志向や百姓気質の呪縛があるとしてももっと他のことに向けろよと本当思いますね。いじめをする人はそれができない。で一番やっちゃいけないに近いこと、理由もなく他人を傷付けることにエネルギーを振り向ける、だから非常に低級なのです。自分一人で生きてるわけでは絶対ないのにあたかもそれができてると勘違いしている。そして相手が人間ということも忘れて、自分の要求だけをする。しかもその要求が生産とか全体の利益とかに全く結び付かない単なる自分の価値観だけで決められてる。ほんで最後の正当化は暴力による。本当の本職の人が来たら奴隷のようにひれ伏すのにね。本当悪い、馬鹿過ぎて悪いに至っていると思う。

 

 

では何故こういうことを言ってる私がともすればいじめをする人に迎合するようにも読めることを書いているか。それは一見非常識な態度に見えるかもしれない。しかし私はここにも本質的なことが多分含まれるように思うのです。

まず忘れがちなことかもしれませんが、いじめをする人でも生まれた時はかわいい赤ちゃんだったし、2-3歳になって言葉を喋れるようになり、4-5歳から幼稚園や保育所に行き、7歳くらいから小学校に行きました。いじめをする人でも家族や親戚や友達がおり、いじめをする人でもペンで手を刺されたら「痛い」と思い、他の人から「うぜー。消えろよ」とか言われたら心の中では涙がにじむ。

まあ要するにいじめをする人でも人間なんです。だからいじめをする人を排除したり、完全にひざまづかせたりはできないんですね。それをすればこっちがその人をいじめることにもなる。「そっちが先に始めた」というのはちゃんとした正当化にはならないと思う。だってAという行為が悪いと言って同じAという行為をしたら意味ないでしょう。

これは現実的にも言えてて、いじめられて相手を刺したりしたら社会から非常に厳しいペナルティを課されるし、仮に訴訟で勝ったとしてもその人がいじめの呪縛から逃れた幸せな人になれるわけじゃないと思う。克服してないからそうなるんですよ。私の中学校時代の同級生で一人かわいそうな子がいまして、何かいじめられていたんですね。クラスが違かったから詳しくは知りませんが中1くらいからいじめられてて途中から学校に来なくなった。で高校は入ったんだけどすぐやめて、何かようわからなくなった。で19か20くらいの頃から風俗嬢になって、まあお金はあったみたいなんだけど20代前半で自殺した。デタラメな生活になっていてクスリとかもやってたみたい。小学校から知ってるけど普通の人ですよ。ちょっと変わってるとこは確かにあった。無神経と言うかそういうところがあって、しかも本人はめちゃくちゃ傷つきやすいんですよ。あといじめられる頃は結構ポチャになってた。でもそれを含めても普通の人ですよ。性格も悪くないし、家も普通だったし。お母さんとかおじいちゃんとよく買い物に行ってたの覚えてますよ。まあその頃は私も今書いているようなことは全然わからなくてアドバイスとかもしてやることはできなかったんだけど(そういう間柄でもなかったしね)、結局あの子はいじめられてたことを克服できなかったんだと思う。バカと言えるくらい明るくなったと思えばめちゃくちゃ暗くなったりしてたみたい。物凄く悪そうな奴と付き合ったりしてたから、その時昔いじめてた奴と会えば半殺しにもできたのかもしれないが、元々はそういう乱暴な人が好きなわけない人なんだな。優しい人が好きなタイプの女の子だったと思う。まあこの子のことは私がいじめについて考えることの原動力の一つにもなってるのですが、でもリアルタイムのあの頃、あの子はいじめられてたことを克服できてなかったように思う。強く思う。

で訴訟とかで勝っても本質的には同じじゃないのかと思う、と言うかそう感じるんだね。あの子とは違い社会が味方についてくれるということだから、条件は良くなると思う。克服しやすくなると思う。しかし結局は外の力に頼ってそこから逃げている感がぬぐえないんだね。だから「これで大丈夫!」という感じもしない。それよりは「他の所に行って大丈夫だろうか」という疑問を抱く場合もあると思う。こんなこと言うと「じゃあ克服するって何なのか?」って言われると思う。それはこのブログ全体で書くことでもあるが、一つは「いじめている人と融和する」ことと思う。融和だからこっちが隷属することじゃないよ?いじめられたくないから相手の配下になるようなことは駄目。まあこれについてもそのうち書くかもだが、ともかくそれは違う。融和とはそんなのじゃなくて、いじめている人をある意味理解して、その人と人間的な繋がりを持つことだと思う。友達になったりする必要はないんだよ、でも「私はあなたを怖れてない。だかこれは迷惑だよ」と言えて、相手が「お前のことがよくわかってなかった。悪かったな」と言えるような関係とでも言いますかね。ここで「悪かったで済むか!」と言えばまたサバイバルの戦いになって解決しない。だから克服に当たってはある程度感情をコントロールする成熟性というものも必要になると思う。仮に学生の人がこれを読んでたとしたら10代の人に成熟性とか求めるのは酷とは思うが、今その人の人生にそういう事象が現れているとすればその人の人生はそれ(成熟性)を求めてるんだよ。初めから完全なものを持つ必要はないが、その第一歩を刻むことはすごく意味のあることじゃないのかなあ。

でまあ、もう二度と顔も見たくない、で終わってもいいんだよ。だから実際に融和の会話とかを交わす必要もない(あった方がいいけど)。でも心の中でその人を許せること、これだね。軽蔑するでもなく、迎合するでもなく、「ああ、あの時はあいつもきつかったんだろうな」とか「あいつも成長してなかったんだろうな」と見られるようになること。こんなのかな?

ただ、現在いじめられてる人は「あの頃」じゃなくてリアルタイムでこれをやらなきゃならない。リアルタイムの方がハードルは高い。でも原理は同じと思うのね。でこれがリアルタイムで出来れば、状況も変わるんじゃないかなあ。だって相手を人間として理解するということだから。理解してる!とアピールするのはウザいしほとんどの場合内容的にも誤ってるけど、そういう本当の理解は人に安心感を与えるものだからね。相手は首をかしげると思う。(何で自分はこいつをいじめてんの?)っていう内心が生じることも少なくはないように思う。

 

まあ若干理想論ぽくなってるかもしれない。しかし相手を物理的に排除するとか訴訟に勝つとか言うよりは現実性はあるんじゃないでしょうか。まあ一番現実性があるのは逃げる・避難するということで、それは決して悪手ではないのですが、逃げる避難するだけじゃ私の同級生のあの子みたいになる危険もあるので、逃げつつ克服を目指すというのがいい方向のように思うんですが。学校や教育委員会に頼むというのも現実性がありますが、これは効果のある場合とない場合の差が激しい。テレビでいじめによる自殺のニュースが出る場合、大体能力不足な担任、校長、教育委員会などが登場しますよね。まあ先生と協力しながら解決するというのは非常に有効な手段であるから今後これも多分書くと思います。でもこの手段にも効果が安定しないというマイナスがある。それに対し自分で克服するというのは効果が絶対ある。まあ一言で言えば強くなることに近いから。そういう強さは相手はわかるから次第にいじめられなくなる。で何より自分の中で乗り越えられるから後に引きずらなくなる。だから現実的な手を選びつつ、克服を目指すというのはとってもいい戦略のように思うのです。

 

 

ということで今日はこのくらいで。最後に一つ。学生時代はヤンチャなほうが幅をきかすのでいじめる人ってヤンチャぽい人の方が多いと思う。でもそういう人って勉強とかしない場合も多いので大人になってきつい職場になることも少なくないのね。建設とかね。建設きついよー。特に夏は本当たまらんと思うね。でもそういうきつい仕事しながら生きてるのね。仕事してる時は世の中の役に立ってるから。ほんでそんなやってられんような仕事に毎日行って生活費を稼ぎ出し、生きて行ってるんだよ。ここにそういう人たちの非常な人間くささが見えませんか?いじめられた人は学生時代はその人を本当ゴミ、クソ、バイ菌とか思ったかもしれないけど、その人はゴミでもクソでもバイ菌でもないんだよ。

それとかこの前家族が入院してお見舞いに行ったら病院に本当お相撲さんみたいな看護師がいたのね。マジですごい肥満。マツコとかよりデカいと思う多分(笑)。でその人がいじめられてたかは知らないけど少なくとも一般的に言えば激ポチャ、超デブ。でもその人親切で、明るくて、他の看護師の人とも仲良かった。うちの家族もよく面倒見てもらった。ポチャデブが嫌いな人はその人をゴミ、クソ、バイ菌みたいに思ったかもしれない。でもその人はゴミでもクソでもバイ菌でもないんだよ。人間なんだよ。これが融和ということだと思う。いじめる奴もいじめられた人もね。理想論に見えるかもしれないけど、ここに一つの解決のヒントはあると思います。

まあいろんな解決の仕方があると思うからね、これが最上だとか、こうすべきだとか言うつもりはないけど、今日書いてるようなことは言いにくいことだとは思うのね。だってこんなこと言ってるコメンテーターとか教育学者とかあんまり見たことないよね。多分いじめの被害者とか、テレビの場合視聴者からクレームが入るんだろうね。でもそのクレーム対象(?)のこの方向が実はいいものを含んでいるのかもしれませんよ!

学校に行かないということ その2

では久々に書きます。「学校に行かないということ」の3と4を書いてなかったからね。今はちょうど夏休みで、プレッシャーのない冷静な心で接することができるかもしれないので、ちょうどいいですね(笑)。

 

学校に行かないことは次のメリットを失うということで

3「学校に行っている=怠けてない」

4みんな行っている学校に行くことは、変わった人、変な奴じゃない

つまり学校に行かないということは

・怠け者と思われる

・変な奴と思われる

というデメリットがありうるということであります。これは多くの場合当たっているような気がする。だから親は怒るし悩むし、本人はプレッシャーでとてもきつい、つぶされそうにもなる。お前の子供は怠け者だ、変な奴だとか言われたら親はイヤでしょうし、責任も感じる。お前は怠け者だ、変な奴だとか言われたら本人はとても傷付く、どうしたらいいかわからなくなって時には死にたくなったりもする。

でもね、こうやって自分の敵と言うか苦しめているものの本体が見えたら少し楽にならない? わけのわからないまま全的に、存在的に、ウワーッと圧力を受けるのよりは大分いいんじゃないでしょうか。

 

私は無理して学校には行かなくていい、まあ時には行かない方がいいという結論です。だからこの3と4についてしっかり考えねばなりません。そこでまず3について考えます。

 

でまず、ここで普通のブログだったら学校に行かないのがいかに怠け者でないかの解釈等を繰り広げると思うのですが、これはリアリズムに反している場合もあると思う。普通の人といじめ被害者を二分化して戦うことにどれだけの意味があるのか、いじめ被害者だけの国や社会が作れるのか?世の中の少なくとも半分の人は他人の事など無関心な人なのでそういうスタンスでは解決しないような気がするのです。

で学校に行かない人はやっぱ活動的ではないと思うんだ。外でみんなでワーワー言って遊ぶより家の中で一人とか少人数で遊ぶ方が好きみたいな。また怠け心もあるかもしれない。きついのが嫌だとかね?あーもうイヤ、学校行きたくない、寝ときたいみたいな(笑)。

でもさ、ここからが重要なんだけど、「お前怠け者だなぁ」とか言われたら誰でも嫌ですし私だって嫌ですが、誰でも怠け心ってのはあると思うんですよ。どんなに友達多くて中心メンバーみたいになっている人でも「あーもう今日きつい、学校行きたくなーい」という日はありますよね(笑)。でも日本の社会では怠け者ということがまさに存在を許されないような者として見る傾向が強いのね。ここですよ、まず。ポイントは。つまり、私の論で一貫してる消すに消せない日本人の農民気質なんですよ。

世界の文明の進歩はある意味人間がどれだけ楽に生きれるかをテーマにしているが、日本ではその結果とか全く見ずにともかくがんばっている、汗水垂らして耐えている、寸暇を惜しんでエネルギッシュに動く、そういうのに価値を置きすぎている。東南アジアとか南米とかだったら怠け者の人とかメチャクチャいっぱいいますよ(笑)。「だからあいつらは貧乏なんだ」と日本人は自己正当化するでしょうが、日本より遙かに高い一人当たりgdpを持つルクセンブルクやスイスでも日本人みたいではないですよ。大体アメリカが「あくせく働いている人は金持ちではない」ですからね。アメリカで言う金持ちとは資産を持っている人ですよ。株持ってたり、ビジネス持ってたりね。

確かに一生懸命やるのはいいことだろうが、それ故にゆっくりした歩みが好きな人を排斥するのは、また逆に悪になるんじゃなかろうか。人間は自分のために生きるのではない、社会のために生きるべきなのだ、日本人にはこういう心性が奥にあるのではなかろうかと思う。まあここら辺は政府も認識してるようで残業の厳格化とか有給の半強制取得みたいのもやってますからね。確かに商売や事業ではここらは難しい問題なんだよ。でも学校でしょ?(笑)学校に売上とか倒産とかあるの?(笑)。だからここはもう通り過ぎるべきじゃないかな。

まあそれにはいろいろな価値観があろう。だから何が絶対的に正しいかとかわからない。でもここのポイントは要するに、もっと結果を見た方がいいんじゃないかということです。それも他人や社会における自己像に囚われるよりも、自分の心とマッチしたやり方でね。単なる結果じゃなく、自分の人間+結果でね。

むろん学校に行かないのが純粋に怠け心の人はほとんどいないと思う。行きたいのだけどクラス全体やクラスの人が怖くて行けない、そういう人が多いと思う。しかし学校に行くのが面倒くさい、きついというのはそれこそ誰にでもある共通項と思うのね。そこで行かないという道を選択する。ならば怠け者の要素を完全に払うことはできないと思うの。そこで「怠け者じゃないと思え」ということを強制するのは無理がある。もしかしたら教育委員会とかは味方をしてくれるかもしれない。しかしそれで本人はどうなるか?ますます弱くなるんじゃないでしょうか。特別の保護が必要な人になってしまう。特別の保護が必要な人はそれがないところでは生きられない。だからいじめに無関心な校長や担任教師に当たれば全く行けなくなる。そしてより怖いのは高校より先には特別の保護をしてくれる所は基本的にないということです。だからここは特別の保護を求めるよりも「うむ、確かに今は自分は怠け者の要素もある」と認めることの方がいいんじゃないでしょうか。それは強さの第一歩につながる道のように感じる。

実際今は怠け者と言われてもいいじゃん。それで何か実害があるわけじゃないし、学校に行かなくて「いや、私は怠け者じゃない」とか言っても、わかってくれる人はわかろうがわからない人はわからないという現実は変わらない。で重要なのは多分、多分だけど、怠け者の要素もあるんだよ。本当に怠け者の要素が一切なければ違うけとほとんどの人はそうじゃないよね(笑)。怠け者の要素もある。だからそれは客観的にも間違っていない。でもそれは全然おかしいことじゃない。だって誰でも怠け者の要素はあるんだから。まあ学校生活が非常にうまく行ってたらそれでも行くけど、あんまりうまく行ってないから「もういいや。行かね!」みたいな。ほとんどの人はそんな感じじゃないのでしょうか。だからいいんだよ、それで。無理矢理行くよりは。でも一生怠け者だったら寂しいから、ここで重要になるのが「強味を生かす」ですよ。学校なんて10代の数年間しか関係ないんだから、そこだけで自分を規定したり諦めたりしては非常にもったいない。自分は何が好きかとかどういうことだったらうまくやれそうかなどをしっかり考えて行ってたら、ただ形だけ無欠席で学校行ってたよりも遙かに多くのものをつかめるのではないだろうか。その時隣のオバサンから「怠け者」と思われたとしても、20代30代で自分のやること掴んでたら多分普通にやってきた人よりも褒められますよ(笑、まあ褒められたりしなくてもいいけどね)。まあ自分のやること掴めない可能性もあるが今は掴めると思ってやれるし、でそういう気持ちで行ってたら大体掴めるからね。だから3については「怠け者」という批判とか相手にしない、それよりももっと大事なものを掴もうということです。これやれば3のデメリットなんて吹っ飛ぶよね。

 

で次の4、まあこれも大体同じですね。「怠け者」が「変な奴」になっただけで。ただここではさっき外した非活動的みたいのかメインになる違いがある。「陰キャ」みたいなものですかね。「学校も行ってない=陰キャ過ぎる」そう思われるのがすごく苦痛だから無理矢理学校行くみたいな。超陰キャの烙印を押されてしまう、これは学校に行かないことのデメリットとして確かに存在するように思う。

でここで重要なのはまず自分の価値観を広げることじゃないでしょうか。「陰キャと思われるのがイヤ」ということは他でもない自分自身がそのよくわからない「いけてる/陰キャ」の二分法を受け入れてるということだから。まあそれは今の日本の風潮で個人が受け入れる受け入れないの枠を越えているようにも思える。しかし今までの世界を作った発明家や起業家や芸術家の半分以上は陰キャですよ。その人達が作った機械やシステムがなけりゃ最高にいけてるとされているような芸能人やお笑い芸人も何もできないよ。「いけてる/陰キャ」の二分法を作るのにメチャクチャ貢献してるのが電通と思いますが、電通の神とされている吉田秀雄とか陰キャの方に近いですからね。まあ陰キャと言ったら語弊があるけど全然いけてはないですよ。超貧乏で生まれ、東京帝大には言ったが半分ヤクザと思われていた当時の広告業界に入って、戦時統制下の内務省とコネを作り、半分ズルみたいな形で会社をメチャクチャ大きくしたんだから。面白くもないし、さわやかでもない。どこか暗い陰が常にある人ですよ。で世の中は半分以上そういう人が動かしてるの。いけてるとか陰キャとかそういうのがある意味絶対的な強さを持つのは精々学生時代くらいで、25才越えたら変わってくる。性格というのは中々変わらない。逆にアメリカやヨーロッパでは自分の性格を変えようとすることの方が好ましからざることになったりもする。誠実じゃないみたいなイメージかね。そりゃ部分部分こういうところは良くないなというのは変えた方がいいだろうけど根本的な性格は中々変わるものではないし、変えない方がいいものである可能性すらある。陰キャというのは根本的な性格と関わることが多いと思う。でも「学校行かない=超陰キャ」このデメリットも絶対的なものでは全くないですよね。何か「陰キャ」とか何とかとかそういうのどうでもいいからもっと本当のものが掴みたいと思いませんか?それですよ、本当のものを掴むんですよ。「いけてる/陰キャ」という変な二分法から離れ価値観を広げて行く、それは本当のものを掴む第一歩になるのではないでしょうか。こう思えばいじめられて学校に行かなくなったのもある意味幸運の要素がある。少なくとも利益となりうる要素は絶対にある。こういう機会を捕まえることはただ単に無理して学校に行くよりも遙かに価値があるんではないでしょうか?

 

ということで「学校に行かないということ」のテーマを一応終わりにします。まあ学校に行かないことには確かにデメリットはある。しかしそれは回復不能なデメリットでは全くなく、逆にもっと貴重なものを掴むチャンスとなりうると思うのです。だから学校に行ってない人も絶望したりする必要は全くない。それどころか単に形式的に学校に行くだけの人よりももっと大きな夢を持てるのかもしれないですよ!

強味を生かす

今日は強味を生かすことについて書いてみようと思います。前回の学校に行かないことの後半が残ってますが、先に強味の方について書いていた方がいいと思うからです。

強味を生かすは私の中心概念の一つで、様々なテーマで登場するのですが、現在いじめられている人は自信を失っていて「強味を生かす」とか言っても全然白々しく聞こえるようにも思ったのです。「強味を生かす」は面前で話していたら何となく伝わるものなんですよ。そのことについて特に説明しなくてもね。何かよくわかんないんだけど結構そうと思う。しかしこれはブログで完全書面みたいなものだから、全然伝わってないかもしれない。なのに就職だの逆転だの言っても全然リアリティがないかもしれない。だから今回は先にこの「強味を生かす」について説明します。

 

まず「強味=長所」ではありません。「長所」と言えばそこに先に社会によるフィルターがかかっているからね。学校から見た「長所」と会社から見た「長所」、家庭から見た「長所」多分全部違うと思う。中小企業だったら社長の性格が強く反映される所も多いから会社ごとに「長所」が違うのかもしれない。

「強味を生かす」の強味は長所ではなく「その人」です。その人の全部が強味になりうる、そしてその中から何らかの生産的要素に結び付きうるものが「強味」となる。でもここで「生産的」というフィルターをあまり厳密に捉えない方がいい。ともかく日本は横並び意識みたいのが強くて、みんなが認めているものしか認めたがらないがこれは人間として結構情けない態度ではないのかと思う。最近先進各国の若者の意識調査があったけど肯定的イメージについては日本人ほぼ最低ですよ。日本の若者は不幸みたいな感じがあるね。でもそれは外から与えられたものではなく、自分でそうなっている部分がある。その理由の一つがこれ↑と思う。アメリカではどんないじめられっ子でみんなから変と思われている人でもちゃんと自分の意見を言うんだよ。多分自分を肯定してるんだよ。でも日本では見方をちょっと誇張的にすると誰も自分を肯定してないんですよ。カッコつけ儒教とウンコ徳川幕府の影響かとも思うけど、精神的には明治維新前の要素も相当残していると思うね。とまあそんなのはいいけど(笑)、日本ではある意味みんな自分を肯定していない。そして肯定するのに客観的な飛び抜けた業績を求める。東大に現役で受かるとかスポーツで県大会上位に食い込むとか親や一族が大変社会的地位が高いなど。そういうのがあって初めて自分を肯定するのが「許される」みたいなね。

でもこれ完全な誤りと思う。孔子とかこんな感じなんですよ。何か偉い厳しくて、謙虚とか礼とかバカバカしいこと言ってる。しかしこれは人間を非常にバカにした話だと思う。

人間と言うか生命自体をバカにしてるよ、あいつら。例えばね、蚊が木星で発見されたとする。エウロパとかでね。蚊ですよ、蚊。人間に病原菌を移したりする悪いあいつですよ(笑)。しかし木星で発見された蚊を殺したりしたら世界中から大悪人とされるだろう。つまり蚊でさえも、それだけ貴重なんですよ。生命である、それだけで価値なんです、本来はね。だって作れないもん、まだ。何か動物の細胞から何かとってきて操作を加えていろいろやるということはできるよ?でも何もないところから生命を作ることは現在のどんな最先端の科学技術を駆使してもできない。でしかも、人間は蚊とは比べ物にならないくらい複雑で、多分高等と言っていい生物生命なんだよ。人体は小宇宙とか言うけど本当宇宙の星と同じくらいの数の細胞がある。そしてその非常に微妙な働きとバランスの上に初めて人間というものがある。

天才と言われる人がいるよね、モーツァルトとかアインシュタインとか、近年ではイチローとかかな? でも細胞や神経や骨格、筋肉や皮膚の作りなどは私達と全部同じなんだよ。作り自体は一緒なの。これすごくない?

つまり要するに人間はそれ自体で価値があるの。私が言う「強み」の源泉はここにある。何か自分の狭い価値観で勝手に優劣を決めて、自分の価値観に合わない者をすぐ「小人」とか言っていた孔子が人間をバカにしているというのもここにある(本当あいつは何の権限があってそんなこと言ってたんだろうと思う。今の中国が人を人とも思わない本性のようなものを持ってるのもあいつが関係あると思うし)。まあ儒教はいいや、確かに儒教にもいい部分はあるからね。ただあれは古代のものだからあまりに視野と価値観が狭くて有害なところが非常にある。

しかし私はこう言っているが世間でこれを言ったら「キチガイ」ですよね、私。孔子は糞とか言って(笑)。つまり社会は前者を基準に動いているんです。少なくとも日本はそう。そんな簡単に自分を肯定したりするのはアホなんだよ、自分を肯定したいなら恵まれた才能、少なくとも果てしない努力の後にしろよ、という空気が非常に漂っている。でもそれは正しいのでしょうか?価値観の問題だから正しいとか正しくないとかは言えないかもしれない。しかし正しいとしてもその価値観は人を幸せにするでしょうか?その結果がアメリカやフランスドイツなどより遙かに低い自己評価の日本の若者、G7の先進国なのに自殺率が非常に高い日本の若者に現れているのではないかと思う。自慢の経済も停滞感が非常に強く、例えば70年代からのアメリカの停滞を打ち破った象徴のような人物、つまりスティージョブズみたいな人も生まれそうもない。日本でも松下幸之助さんや本田宗一郎さんは今の日本人とはかなり違うからね。もっと自分で考え、厳しい統率をひく一方個人個人の人間については自由を非常に大事にする感覚でしたよ。ごく最近は少し変わってきたけど大勢は江戸時代以来からの伝統的日本の感覚だよね。でもこれ嫌だよね?ならばまず自分がそうしてみようではないか。退屈な昨日の続きをするよりそっちの方がいいんじゃなかろうか。

 

これが「強味」の基礎です。何故それが強味なのか、その源泉は人間であることにあります。だから理論的にはどんな人にも強味はあります。

ただ対象との関係で強味になるものとならないものが分かれる。例えば暴力団に入って出世しようと思ったら、法律とか秩序とかクソくらえと思っていて、相手がかわいそうで普通の人なら涙しちゃうような場面でも無視できるなどが強味になる。こういうのは普通は強味と捉えられないけど「暴力団に入って出世しよう」という対象との関係では強味になる。この例が一番わかりやすいと思う。

だから例えばいじめられて立ち直れない、人が怖くてすぐビビってしまう、このブログを読んでも全然変わらない(笑)とかいう人がいるとする。強味なんて全然ない?ありますよ。それだけ繊細でいじめられている人の気持ちがわかるなら児童福祉司とか社会福祉士とかなったらいいプロフェッショナルになりうると思うよ。いじめられている人がまず求めるのは気持ちをわかってもらうことだよね。それがわかるんだから。しかもいじめをなくしていきたいという強い気持ちもある。これを強味と言わずに何と言おう。

こんなの。これが私のいう「強味を生かす」。だから強味がない人、少なくとも素質の段階ではそういう人はいないと思う。半分は意思の問題だね。「強味を持ちたい」と思えば何らかの強味は見つかるものなんだと思う。まあそれが普通の物売ってる会社を対象としても強味たり得るかはわからないが、それを強味とする対象はある。

まあこのテーマも一日で語り尽くせるものでは全くないのであれだけど、こういうことをちょっと意識においたら今絶望してるような人も変わっていくのではないかと思います。

自分の強味は何か考えよう!でそれが何の職業に結び付くか少しずつ考えよう、ということです。

どうせもらった生命だから、ああしなきゃならないとかこうしなきゃならないとかないんだよ。それよりもどうすれば自分が活きるか、これを考えた方がいいよね!

学校に行かないということ

今日はこのテーマを思いついたので、これについて書くことにします。

いじめられて学校行かない人は、いつもそのことが心にのしかかっていると思う。まあ慣れてる人もあるかもしれないけど、それでもやっぱり何か重い気持ちはあるんじゃなかろうか。しかし一方無理に学校に行き続けて自殺したというニュースは毎年複数報じられる。

いじめと学校というのは考えなきゃならない問題ですよね。私はこう見えても半年くらい中学校の臨時教師したことがあって、その時受け持ったのが「教室に入れない生徒が行く教室」だったのね。昔で言う「保健室登校」みたいの?不登校一歩手前の子が10人前後いた。まあそこに来てた人達はある意味良かったよね。避難したから。でも避難できずに行ってる人や避難しすぎて家にこもったりしてる人もいるかもしれないので、今日はこのいじめと学校というテーマについて考えてみたいと思います。

 

まあ学校行ってる人は(特に中学生くらいまでは)学校が全てというところはあると思う。ここ数年(スマホが普及してから)はSNSがすごく発達したから少し変わってきてるのかもしれないけど、学校という存在は大きいと思う。全てではないけと7割くらいはあると言うか。

でも一番初めに言っとかなきゃいけないのは「学校=全て、世界」というのは錯覚だということです。学校なんて社会のほんのほんの一部分でしかない。これが前提。そして前提だけど非常に重要。だってこの前提からすると「学校も行ってないから自分は終わり」という感覚は錯覚ということになるから。ぶっちゃけ学校とか行かなくても全く大丈夫なんだよ。少なくとも私はそう思います。ただそのためにはいくつか必要と言うか、考えるべきことがある。でも結論から言えば学校とか行かなくても大丈夫だし、また学校行ってない人はある意味これを一つのチャンスと捉えるくらいの気持ちがあった方がいいように思う。

 

でもこんなこと言っても世間的にはまあ暴論でしょうし、まずは何故学校が絶対的なものじゃないかについてもっと考えてみます。

ではまず学校に行かなきゃならない理由は何か?学校にどういうメリットがあるのかと問えば

1 勉強

2 友達、コミュ力養成

3 「学校に行っている=怠けてない」

4 みんな行っているから行くのが当たり前。つまり不登校は「終わった奴」「変な奴」

こんなところでしょうか。4はこう思われないのが学校に行くメリットみたいになる。

まあ一見この4つは強くも見える。だから学校行かない本人はプレッシャー受けるし、親も相当悩む。

まあ不登校になってる人は親との関係が悪くなることも珍しくないと思う。でも親を責めるのはどうかなあ?多分、違う場合がほとんどじゃなかろうか。だって親は学校行って就職して結婚して子供作ってというのがほとんどでしょう。だから学校行かないとかいうこと自体が考えられないんだよ。だから頭から「ダメだ」となってしまう。でも今は昭和の時代と違って、学校行かなくても何とかなるし、また今から先はますますそういう人材が求められてくるから。だから重要なのはまずは学校行かない本人が学校に行かないということについて周りに流されない認識を持つことだと思う。だって自分のことなんだから。それは親にもわからないし、学校の先生にもわからない。彼等彼女らは「学校行く」の世界しか知らないんだから。学校に行かない本人は「学校行かない」世界の専門家にならなきゃ。だからまずは周りに流されない認識を持つ、それがスタートなような気がする。どういう認識を持つかは人それぞれと思う。だってそれこそ各人の人生のデッサンと深く関わるから。だから今日書いてるのもそういう考えをするときの一種のアシスト程度ですよ。あなたの人生の主人公は誰? その人が考えるしかないし、実はその方がメチャクチャいいんですよ!

 

ではまず、上記の学校のメリットの相対性について書きます。相対性というのは絶対的ではないということ、つまり「全て」ではないという意味ね。

まず勉強。これはある意味建前になってきてる。学校、特に公立学校は勉強が目的じゃなくなってきてる。でもこれは正常なことで勉強とか出来なくても生きていけるし、勉強より大事なことはいっぱいある。そしてこれが決定的だけど学校行かなくても勉強はできる。パナソニックを作った松下幸之助さんなんて小学校中退ですよ(笑)。2019年の世界資産家ランキングの日本人ワンツーの柳井正さんと孫正義さんは共に松下幸之助さんを非常に尊敬してますけどね。まあ結局本当に精神的に成長するには学校が終わった後での勉強が重要なんですよ。旧帝大クラス出ても人間性の貧しい人とかいっぱいいるし、勉強と学校とかあんまり関係ないよ。だから1のメリットはほとんど錯覚。実体がほとんどない。

次2、これは1より強い。友達は、うーんどうかなあ、やっぱいた方がいい。まあいなくてもいいんだろうけどね。でもいなかったら便利が悪くはなる。で「学校行かない=コミュ力が強くない」この推定も一応は成り立つと思う。「弱い」とまでは言えないだろうけど「強くない」は言えそうだよね。

でも2との関連でも学校は絶対的なものでは全くない。まず学校以外でも友達作れるよね。と言うか学校出たら学校以外の所しかないんだし(笑)。より重要なのはコミュ力だと思う。

まあコミュ力というのがどういうこと指すのかはよくわからない。人によればただバカ騒ぎするような仲間をいっぱい持てるのがコミュ力になるんだろうし、逆に極少数の親友と本当に人間的な関係を作れるのがコミュ力という人もいようし。だからよくわかんないんだけど、ここでは「人とうまくやっていけること、その力」をコミュ力としましょう。

で、この意味のコミュ力は重要と言うか価値と思う。なくてもいいがあった方がうれしい。でもコミュ力と学校ってあんまり関係ないと思うな。このコミュ力は結局本人の意向と優しさや誠実さ、表裏のなさ、バランス感覚、責任感などのミックスと思う。学校行けばコミュ力つくわけじゃないし、これも学校以外で全部できますね。

ただ学校行って友達いっぱい作れてる人は自然にそれができてるとは言えようね。換言すれば生まれつきコミュ力が相対的にある。逆に学校で友達一人もできない人は少なくとも現時点ではコミュ力があまりない。

でもコミュ力というのは大人になったら変わってきますよ。まず社会人になったら学生時代によくいるような失礼な奴が非常に少なくなる。そういう世界に入れば多いのかもしれないけど(笑)普通は少ない。で会社の場合は共通の目的がある。その共通の目的に貢献できる人は基本的にいい人間関係を持てる。学校とか、まあ先生方は頑張ってるのかもしれないが、ぶっちゃけ目的とかないじゃん。毎日ダラダラ過ごしてるとも言える。でも会社は売上高とか「こういう商品を作る、サービスをする」「お客さんにこうなってもらう」という共通の目的があるから。だから学校と違い「何しに行ってるかわからない」とかないし、本人がやる気を出せばどこまでも頑張れるところだよ。確かに事業や商売というのは厳しいのだが、それだけにみんなと協力する必要があるし、目的に貢献できる人は大事にされる。社長が変な人の会社はそうじゃないかも知れないけど、小さい会社でも普通はそうだよ。完全にそうと言うわけじゃないとしても基本はそうみたいな。やっぱ儲けられないと潰れるからね。でお客さんを騙して儲けるみたいのは本当長続きしないからね。ともかく儲けの原動力になれれば基本は会社での人間関係も上手く行く。だから今はコミュ力持ててない人でも後になったらコミュ力ある方になるって場合も全然あると思うのよ。特に今の学校の粗野で幼稚で目的ないところが嫌な人はそうかもしれないと思います。就職とか今は遠く見えるかもしれないけど、学校に行かないからこそ、これは今から考える必要がある。まあガチガチに考える必要はないし、ガチガチに考えても後で変わるからあれだけど、一応就職ということを視野に入れた人になった方がいい。で今はコミュ力ない人でも就職したらコミュ力ある人になることは全然よくあるということ。例えばね、学校だったら「真面目」をバカにする要素にする人達もいるけど、会社じゃ逆だからね。真面目に仕事に取り組む人は少々内気であっても、とても良く扱ってもらえる。コミュ力ある人になるのは全然可能なんだよ。

ただね、ここで重要なことが一つあって、そういうコミュ力ある人になるためには精神にある種の健全性が必要ということ。例えば人の気持ちを非常にひねくれたように解釈し「あの人は~」とか思ったり、被害妄想みたいのがあって「いつも自分は不利に取り扱われてる」みたいに思ったり、「どうせ自分は駄目なんだから」と投げやりだったり、何かあったらすぐ自慢みたいのをしマウントばっかり取りたがるとかだったりすれば、厳しいかも。まあ何が魅力とか人それぞれだけど、一般的にはね。真面目に仕事に取り組んでもそういうところがあれば、やはりコミュ力が弱くなるかもしれない。

でも、いじめられたら心に傷が付く。本人には屈辱であり、屈辱を強制されたらパーソナリティの根幹に重大なマイナスを与えられる危険性が結構ある。

だからここで結論が逆説的になる。2のコミュ力は重要。しかしそれが重要なら重要な程「無理して学校に行くべきではない」となる。学校が将来のコミュ力の芽をつむ所になってるなら、コミュ力養成どころかコミュ力潰しの場所になってるんだよ。そういう所に行く必要はないよね。無理に行かせるのはおそらく非道徳的とすら言えると思う。

学校行かないことは一見コミュ力がない人間にしてしまうようにも見える。しかし無理に学校に行く方が深刻なダメージを受ける危険が大きい。コミュ力は学校に行かなくても持てる。無理に学校に行くよりも、自分や社会のことを考え、いいところを見つけて行ったり将来自分がやりたいことを見つけたりすることの方がコミュ力養成につながるよね!

 

うーむ、また長くなってきてしまった。だから3と4は次回書くことにします。このまま書いたらどっちか手抜きになるし、絶対(笑)。

でも今日のでも学校というのが絶対じゃないことの半分くらいは見えたと思う。確かにそうだからね。いろんな意味で言いにくいことなので言う人が少ないけど。

でもともかく学校が絶対とかあるわけない。学校が絶対だったら政府も企業もアメリカもヨーロッパも何もいらないよ(笑)。

ネットいじめ

ふでは今日のテーマ「ネットいじめ」行きます。

最近多いみたいですね。私も先日知り合いの娘さんがネットいじめみたいのにあって相談に乗ってくれとか言われました。

まあネットいじめとか言っても見なきゃいいだけじゃんとか思っていたけど本人はどうもそうじゃないようで大変落ち込んでました。

今はネットいじめが原因で不登校になったり、心身のバランスを崩したりしてる人が大分いるみたいですね。まあ私の知り合いもそうなんだけど、このネットいじめについてはいわゆる大人・社会人になってる人と、学生と言うか青少年の人達は受け取り方が違うんだね。だからね、言っても多分よくわからないと思う。親とか先生とか。大人は「そんなの見なきゃいいだろ」で終わり(笑)。「そんな気にかける必要ないよ」とか(笑)、いや笑ってるけどそれが第一の普通の反応なんだよ。私もそうだし。別に悪意もないしバカにしてるわけでもない。やっぱ私達が子供の頃はラインとかツイッターとかなかったから多分わからないんでしょうね。でも今回の相談受けてて若干わかった。テレビの芸能人が5ちゃんで悪口ばっか言われるのとも違うんだね。自分をある程度実際知っている人達から悪口言われるのは結構こたえるもんだと。「見なきゃいい」と言われて見ないようにしたんだけど、それでも嫌だ、学校行けないみたいな感じになるようです。

私達の世代であれば例えば「◯◯達が~であんたの文句言ってたよ」みたいなもんですかね。こういうのは昔からあった。でそんなの聞いたら確かに非常に嫌な気持ちになっていた。不良の人達はそういうのからよくケンカとか一方的に殴ったりしてた(笑)。それで学校行けないとかまではなかったと思うけど結構ブルーな気分にすることはあった。

多分「ネットいじめ」もそういうのと同じと思う。井戸端で行われる悪口大会みたいな。

ネットで自分への悪口のような内容を見つけるとヒヤッとする、でも基本それだけ、それ以上の実害があるわけではない。なのに「ネットいじめ」が何故苦しめるのか?「ネットいじめ」はある部分を刺すんだと思う。肉体は刺さないけど心を刺す。で心のどこの部分を刺すんだろう?多分自信のなさや不安感、ここを刺すんだと思う。

で自信がないとか言ったらごく一部の気の弱い人のみ対象になるようにも聞こえるけど、そうじゃない。この自信のなさや不安感は漠然としたそれも含む。「◯◯だから自信がない」のような特定の自信のなさに限られない。だから青少年は大体みんな含まれると思います。青少年は漠然とした自信のなさや不安感を持つ時期というのは青年心理学ではほとんど前提で、しかも実際ほとんどの場合で当たってるから。青少年は高いプライドとそれが満たされるのか?という疑問・不安のはざまで生きてるようなところもあると思う。だから漠然とした自信のなさや不安感を持つのも仕方ない。でこれは自分に期待している、夢を持ってることの裏返しだから、根本的にはいいことなんだけど、自信のなさや不安感が強い主導権を持った場合は不健全になる。ネットいじめは自信のなさや不安感に強い原動力を与えるから、結果不健全を導いてしまうんだと思う。

 

ではどうするか? まずはこういう仕組みを知ることだね。ただやみくもに不安や闇と戦っていてもストレスが溜まるだけだよ。自分が戦っている相手は何かを知ることの方が戦略として優れてるよね。

じゃあ何と戦っているのか?悪口書いてる相手じゃないよね。悪口書いてる相手は主役じゃないから。一種の媒体に過ぎない。自分を苦しめてるのは、自分が戦っているのは、自分の自信のなさ・不安だよね。悪口により自信のなさや不安が頭をもたげる→「自分はみんなに嫌われて価値がないんじゃなかろうか」VS「こんなの嫌だ。自分はもっと安全に楽に生きたい。できれば尊敬もされたい」この戦いが生じているんだけど後者が負けそうになっている、だから苦しいきつい泣きたいとなっている。大体こんな感じじゃないだろうか。この仕組みをを知る。ここで自分の戦うべき相手がわかる。自分の自信のなさや不安だよね。悪口言ってる奴も確かに悪いけど人には好き嫌いの自由もあれば言葉をしゃべる自由もある。だから完全にはなくならないよ。もし今回教育委員会などの圧力をかけて黙らせたとしても一年後は誰か他の人が悪口言うかもしれない。二年後は?三年後は?そして大人になったら誰も守ってくれないんだから。デタラメに常軌を逸したレベルであれば裁判で勝てるかもしれないが、裁判で勝つのは時間金銭労力の面でものすごい負担ですよ。世の中には変な人もいて、根性悪い人もいっぱいいる。その中でそういう戦略を取るのは非常にマズい気がする。勝てる場合がかなり限定されて、且つ勝とうが負けようが同じだけの時間労力、負ければより多額の金銭がかかるんだから。ある意味破滅的な戦略だと思う。だからそんなのよりポイントを突くんだよ。それが効果的。そういう悪い人達が傷付けたところを少々のことじゃ傷付かないようにする、こっちの方が良くないですか?

じゃあどうやって、傷付かないようにするか。まずはどこに自分の強味があるか考えることだと思います。自分の強味がわかったら自信のなさって結構消えると思う。

まあこれについてはこのくらいしか言えない。本気でこのテーマに取り組んだらわかる。まあ「自分の強味」というのは私の論の重要概念なのでいつかこれについて書くこともあるかと思います。

 

一方不安は全部は消えないから。不安がない人って聖人並にすごい人と思う。不安があるからこそ愛があるというようなところもあるからね(結婚届出した途端愛がなくなったというカップルは少なくない笑)。だからこれはあっていいの。でも不安に支配されるのはビクビク怯えて生きるのに近い。そこで自分はどちらを選択するかですよ。不安もあるけど不安に支配されない人間になることを選ぶ、とすればもうそれでいいんだよ。少々悪口言われたところで不安に大きな力を与えたりしない。鈍感であっていいんだよ。鈍感力とかいう言葉もあったじゃん。こういう信念的な強さに裏打ちされた鈍感は単なる鈍感じゃなく鈍感力だと思う。

でこういう風になって行ったら少なくとも学校行きたくないとかまではならない。私が相談した娘さんも今は学校行ってますよ。自分には何の強味があるかを真剣に考え、将来何になろうかという考えにも少しつながってきてますよ。

こうやってブログに書いたりしたらどういう人が読んでるかわからないし、中には私の論では全然通用しないようなハードモードにある人もいるかもしれない。だからできるだけ一般化し適応範囲を広げなきゃならないんだけど、その反射として書いてる内容も難しくならざるを得ない。でも言ってること自体はそんなに難しくないから。

①ネットで悪口言われて苦しい、怖い

②でも自分が戦ってるのは悪口言ってる相手じゃなくて、自分の自信のなさや不安なんだよね

③自分の強味は何か。自分は何が好きで、何に適性があるか

④多分これがいいかな。まずはこれでやってみよう

⑤自分は不安に支配された人間になることを選択するのか

⑥自分は不安に支配されない人間を選択すると決める(推奨)

自分の置かれてる立場で具体的に考えたらそんなに難しくないでしょ?

だからこれ、これだと思う。

「ネットいじめ」は物理的にはほとんど存在しない(例えば日本語が読めないアメリカ人にすれば変な模様みたいのが並んでいるだけだろう)。ただそれは心に刺さる痛みを与える。でもそれを機に自分のことについていろいろ考えられたとすればかなり良かったじゃないですか。他人の悪口を言って喜んでいる連中とは差がつく生き方につながりうると思う。

 

 

 

権力志向の理解

権力志向について何か書くことないかなと思っていたら思い付いたので書くことにします。

 

今の世の中では「権力志向」とか言ったら何かとても悪いことのように思われてるよね。それにも一理ある。しかしまず基本とすればその捉え方はどうなのかなと思う。権力志向の問題はその先にある言わば高級論点であり、普通は権力志向はそんなに妨げられるものではない。それどころか権力志向を持つことは賞賛されている。例えば勝ち組とか負け組とか言いますよね。勝ち組負け組って何だろう?お金や地位、世の中の変動にも関わらず優位を保つ安定性、これらを持つことが勝ち組なんだろう。でもこれって権力志向じゃないの?

 

じゃあもう一回考えてみる。権力志向って何だろう? まあ要するには「みんなよりすごい。上。自分は力がある」って思いたいのが権力志向だと思う。権力とか言ったらすぐ「政治権力」みたいのを思い描くかもしれないけど政治権力は権力の一種に過ぎない。会社の中での権力、学校の中での権力とか政治権力以外の権力がいろいろあるよね。で今言ってるのはそういう自然な意味の権力。何か特定のイデオロギーみたいのは関係ない権力ね。

じゃあ人間が誰でも権力志向というのはどういうことなんだろう。例えば今の私ね。何でこういうこと書いてるの?自分が頭がいいと思われたいというのは決してゼロではないだろう。またそれがある程度ないにしても自分の力が世の中に反映し、いじめられている人が苦境を抜け出す一助になればいいなという気があるでしょう。

これが権力志向です。自分は頭いい、強い、美しい、かわいい、人気がある、あんたより上、世の中の役に立つ、などなどプラスの要素と自分を結びつけ自分は偉いと思う思いたい思われたい、これだね。一言で言い換えれば「自分は価値あると思いたい、認められたい」。でもこれが権力志向なら、「誰でも持ってるよ」と言われるよね。だから言ってるの「人間誰でも権力志向」と。

この源泉はやはり生存というところにあるんだと思う。例えばイワシはミジンコみたいなプランクトンを食わなきゃ生きていけないけどミジンコもそれより小さいアメーバみたいの食ってるんだよね。でもイワシもスズキやカツオみたいな魚に食われるんだよ。でスズキやカツオもサメとかカジキとかに食われる。サメは人間を食ったりもするけど基本は何とかして人間に捕まらないようにしなくちゃならない。基本はこれでしょう。人間は他の動物よりは単純じゃないけど人間という生物自体に権力志向のDNAは強くあるんだと思う。理由は生き残らなくちゃいけないっていうことだね。

 

ただ人間の場合はそれよりも複雑になる。DNAの基礎に加えて、自我というものがあり、自分というものを認識できるから、あらゆる他との比較、果てなき相対的優位への思いが出てき、権力志向が出来上がる。いつ何時でも自分が偉いと思いたがるみたいなことね。例えばコンビニの店員が変な態度でムカついたとか言うとき、何故ムカついたかと言えば実害があったからではなく「軽く見られたように感じた」からだよね。動物の場合でも犬とかネコとかの高等生物になればこれも少しある。

 

じゃあこれがどうやっていじめと結び付くのか。いじめる人はいじめられる人をいじめて自分は強いとかかわいいとかあんたより上とか思いたいんじゃないかな。本人がそう思い、いじめられている人にそう思わせ、見ている周囲にもそう思わせたい。男なら「俺は強いんだよ、このクソが」女なら「お前なんかとはレベルが違うんだよ。ウゼーんだよ」みたいな。これがいじめと権力志向のつながり。多分本質的なつながりだろう。現れ方がいかにも歪で不健全で何の生産性もなく、しかも他人に迷惑をかけているから、「低級な権力志向」になるんだけどね。でも低級だろうが何だろうが今その人がそのレベルにあるなら仕方ない。熱心にやるんだよ。人をいじめる人っていじめることに熱心な場合も多いよね。何の得にもならない、出るとこに出ればまずいのに。でもそれも不自然なことではない。いじめることがその人の権力志向の表われならば自然な展開ではあろう。まあよくはわからないけど、そんな一見損なことを真剣にやる。空気が悪くなるのも構わずにマメにやる。一部の人間はむさぼるようにやる。

 

でもここでその人の権力志向が低級だとか言ってもしようがない。面と向かって「あんたは低級だ」とか言っても本人そのことをちゃんと認識できないし、またもっと悪いことにちゃんと認識できないくせに何となく全体的に多少わかるので(苦笑)逆上して10倍いじめをひどくしようとするのがおち。

じゃあ今日書いてることは無意味じゃんと言われるかもしれないが、そうじゃない。

今日書いてることによってわかるのは「相手も人間」ということだよね。実際いじめられている人は「冗談じゃない。あんなの人間じゃない。ウンコだ」とか思うかもしれない。でもいかに悔しくてもそれは認めざるを得ない。世界最高の生物学者に聞いてもそう言おうし、日本の社会だってそれを認めている。あなたがその人を殺せばあなたは殺人罪になるよね。やっぱウンコじゃないんだよ(笑、と書いていいのか?)。でそういう外から言われるだけじゃなくいじめられている人の心からそれを認められる。だってそうじゃん。いじめる人は権力志向だよね。でもいじめられている人も基礎は権力志向なんだよ。権力志向を持ってるのにバカにされ、無視され、軽く見られ、根拠のない様々な不利益を課せられる、だからこそ腹が立つんだよ。権力志向がなければいじめによる苦痛は10倍は低下するんじゃなかろうか。権力志向によりいじめをし、権力志向によりいじめの苦痛を感じる。ここでいじめる人といじめられる人の間に共通基盤を感じることができる。実際いじめられている人にはそれは本当嫌なことかもしれない。しかし良いことに最後はそうでなくなると思う。

いじめる:いじめられるの関係になるには水と油って関係の人達がなる場合も少なくない。でもこの共通基盤を持っているということは水と油じゃなくなるということだから。この理解は様々な場面を経て結局は相手にも伝わるんじゃないだろうか。そしてこれは重要な部分に関わることだからあなたがこれをわかることは相手にとっては何か「センスが出てきた」みたいに感じるんじゃなかろうか。友達になる必要とかない。許す必要もない。ただ客観的な状況としていじめがなくなればいいんじゃん。でその方向に近付けると思う。自分が上から完全否定されているわけでは全くないとわかるから心理的に余裕が出てくる。また相手の足許が見えるようになる。こういうのは「低級な権力志向」の人が憧れるような権力の一種ですよ。だからそれを持っているあなたは相手には「なんだよ、センスあるのか」という風になる。そこで相手をバカにしたりしたらまたマウント取り合いのバトルみたいになるかもしれないけど、そういうことをしなければ高い確率で効果を発すると思う。

 

いじめが単純じゃない場合は多い。だからこれだけで解決するというわけでもなかろう。でも権力志向は日本人の農民気質・ギャグと並ぶいじめの主要3原因なので汎用性はあると思う。何かしら役に立つんじゃないかな。少なくとも周りを恨み、自分を嫌ったりするよりも圧倒的にいい。個人的には権力志向は3原因の中でもトップじゃないかと思うので、これについてはまだまだ様々な切り口や観点から行くこともできますが、今日はこれでね。まとめるといじめは低級な権力志向だけど実はみんな権力志向、そこに相手との根本的な共通基盤を発見することができ、その理解は様々な面でプラスになるだろうということです。

 

では今回はこのくらいで。テーマを予告してたらそのことについて考えるから思い付くのも早くなる。なので次回のテーマも予告しておこう、「ネットいじめ」です。知り合いの娘ちゃんがいわゆるネットいじめにあって学校に行かなくなったんだ。それでちょっとアドバイスを頼まれ考える機会があったので。多分GW中には書けると思います。

で後読んでる人がいるのかわからないんだけど基本学校でのいじめ中心になりすぎてるので、会社でのいじめについても書いてよとか思ってる人がいればリクエストして下さい。

 

 

続き

「いじめは天の与えた試練」の続きです。前回は何か神学論争みたいになったけど(笑)要するに、「いじめは天の与えた試練」という命題は実際それでよくなった人もいるし、「おそらくかなり有効→でも従える人と従えない人がいる→それは従えない人が弱いのか?→わからない→じゃあこの命題は正しいのか?(もし正しいのなら従えない人が単に弱いということになる)→正しいかどうかわからない」ということでした。正しいかどうかわからないのだから従えない人が一概に弱いとは言えない。

社会は生産性の高い人間を求めています。何故なら生産性が高い人間が多ければ多いほど社会の豊かさは増し日本の国際的立場も上昇するからです。「いじめは天の与えた試練」という命題も社会により適合しより生産性の高い人間を作ろうという社会の無意識的傾向が現れている面があると思うのです。

 

またわけがわからなくなりそうなので先に進みましょう。

まず前回言ったよう天や神様が真偽不明とすれば、究極的な意味では「人間はこうあらねばならない」ということが否定されます。例えば性格が明るくなければならないとか真面目でなければならないとか。人は太陽を仰ぎ活発的でなければならないとか。性格が明るいも暗いも真面目も不真面目も活発も不活発も選択の問題となる。究極的な価値というのを考えてみてよ。それは誰が決めるの?安倍総理が決めるの?最高裁判所が決めるの?東大の教授が決めるの?違うよね。で19世紀くらいまでは誰が決めるかと言えば神様が決めると思われていた。日本や中国など東アジア世界では天が決めると思われていた(西郷隆盛の「敬天愛人」とか有名だよね)。でも天とか神様はわからない(真偽不明)。ならば誰が決めるかと言えば、自分しかないよね。

天とか神様がわからない以上「お前は性格が暗いからこういう罰を受ける。この状況を改めたいのなら性格が暗いのを治せ」という天の声はないのです。それがあるとするなら、それは天ではなく自分の声なんだよ多分。

でここで一つ出る。性格が暗いとか明るいとか言うけど、性格が明るいというのが実際どういう状態を指すのかは非常にわからない。で何となくわかったとしても、それが絶対的に価値があるのかと言えば別にそうじゃない。ただうるさいだけは25越えたらマイナスだよ。表面的な明るいとか暗いとかよりも、人の気持もわかる(優しさ)とかすぐ自分を殺して迎合したりさないとか(強さ)とか、そういうのの方がよっぽど重要と思う。本質的には自分の性格を否定する方がよっぽど危険。相手にビクビクするとかあまりに合わせすぎるとか、そういうのは結構マズいと思うからね。例えばいわゆる陰キャと言うのかおとなしくてすぐ人と仲良くなれる性格でないとしても自分を否定しない方が絶対いいと思う。仮にいじめられている→自分の性格が悪いからだ、とか思うより、自分の強味は何なのか探した方がいい。それが将来の本当の宝になる。

 

でそれを前置きした上で「いじめは天の与えた試練」という命題はどう作用するのかを書きましょう。因果律として作用するのです。

例えば性格が暗かったりしたら他の人の元気もなくしてしまったりするので集団の中では不利な立場に置かれる場合があります。またより深刻なこととして低級な権力志向の人達の餌食になりやすい。弱そうに見えるからその種の人達の力や暴力の発揮対象になりやすいのです。

でこれは因果律ですよね。「性格が暗い→他の人の元気を下げる→いじめられやすい」、「性格が暗い→友達も少なくおとなしい→弱そうに見える→権力志向の人達のターゲットになりやすい」どちらもある意味の自然の理を表してるとは言えないだろうか。「いじめは天の与えた試練」、この命題は(さんざん苦心しながら言ってるよう笑)に絶対的なものではない。でも因果律を示す道具にはなってるんだと思うんだ。因果律とは物の道理と言うのかね。例えば物理や化学の法則は因果律。でも因果律はそういう単なる物だけじゃなく、人間にもあると思うんだ。世間ではこの意味での因果律を指す言葉もある。「処世術」だよ。ただ「処世術」って言ったら関連するハウツー本みたいのもいっぱい出ており、先入観の悪影響を受けるかもしれないから「因果律」の方がいいと思うから因果律と言うけど。

今回のテーマについて(今のところ)私が思った結論が、「いじめは天の与えた試練」この道具によって因果律を知ることができるということです。単純に「この命題は正しい」とすることと微妙な差しかないように見えるかもしれないけど、結構そうでもない、この違いこそがが重要だと思う。この命題を単に外から絶対的に押し付けられるのではなく、自分を保った上で生き方を選択する道具として使えるんだから。

ほんでまた、「いじめは天の与えた試練」これが道具とわかったら、少し心が軽くなると思うんだ。例えばいじめられていて仮に「死ね」とか言われてるとしても全否定されているわけじゃないんだよ。いじめられているとしてもそれは天や神様が「うわーお前が悪いんだー」とか言っているんじゃなくて、目の前のそのちょっと欠けた所もある人が(だって欠けているところが少なければそう容易に人をいじめたりしないから)ただ「お前が悪い」とか言ってるだけですから。だから例えば学校とか会社とかでいじめられて死ぬ人がいるけど、そういう人はやっぱり視野が狭くなってるんだなーと思う。他の人は「そんな学校や会社は辞めて新しいところでやればいいのに」って言うけどそれは多分当たっているんだ。天や神様から言われたら確かに死んだ方がいいのかもしれない。でも目の前のその多分あまり頭も良くない人が言ってるだけなんだから。例えばその人自身も多分全否定はしてないからね。自分で自分のことがわかってないんですよ(笑)。その人が嫌ってるのは因果律に適合しないところですよ。だからそこが修正されれば「あいつ何か変わったよね」とか言い始める場合が少なくない。稀に友達になる場合すら生じる(笑)。まあ友達とかならなくていいかもしれないが、ともかく最悪の状況は脱せられる。いじめられたらそれに引きずられて自分で自分を否定してしまうことも少なくない。でもそうしたらますますいじめられる危険も結構あるのではなかろうか。単純に自分を否定するのは弱さの現れであり、相手は弱いのをいじめるのが好きなんだからね。「ああこいつも反省してるのか、かわいそうだな」とかいうプチ仏心を出す可能性と「うわ、こいつますます弱くなってんの」となっていじめが強くなる可能性、どっちが優勢かと言えば結構きついものがある。だからいじめられて単純に自分を否定する、それは悪循環であり、しかも悪循環と見えるのはおそらく錯覚ではない。世界は広いですよ。ありとあらゆる変な人がいるのがこの世界ですよ多分(笑)。だからそういういじめたりする奴もいるんだけど、同時にどれだけ変わった人であっても私がいて悪いとか思う必要はない。マジでない。この世は変人が超めちゃくちゃいっぱいいるんだから(笑)。

 

ここで、具体的な因果律を知りたいと言う人がいるかもしれないけど、因果律はいっぱいあり過ぎるからその都度見いだして行くしかない。このブログでも後々いくつか具体的な因果律を言うこともあろうけど、因果律とか誰でも自分の周りで見つけられると思う。

因果律の使い方を言おう(今日はこっちの方がテーマだから)。例えばさっき言った性格が暗いを選択したとする。でも性格が暗くても「他の人の元気を下げる」の項を消せば大分良くなる。例えばみんながワーッと盛り上がっているときはせめて笑顔でいるとか、やたら人や人のすることを否定的に捉えないとか。「性格が暗い→他の人の元気を下げる→いじめられる」の真ん中がなくなるからいじめられなくなる。まあ性格が暗い関連の因果律はこれ一本じゃないからあれだけど、ともかく真ん中の項を消せば結構直接的な効果があるんじゃないかと思う。これだよ。単純だけど実際に効果があるのは単純な事である場合の方が多いからね。例えば「性格が暗い→そう思われるのが嫌だから無理矢理明るく振る舞おうとしすぎる→鼻につく→いじめられる」という因果律もあるよね。これも真ん中の項を抜けばかなり良くなるんじゃないかな。「あーやっとあいつ良くなった」みたいな感じ、一番ムカつくところがなくなるんだから相手も若干スーッとする、こんな感じですよ。

何かの具体的なきっかけがあって関係が悪化していじめられるようななった場合とかもあろうけど、その場合その「きっかけ」のところに因果律がある可能性が高い。あーあの時あんなこと言ったのがまずかったのかなとか、あの時肩がぶつかったのに何も言わなかったのがまずかったとか、あるじゃん。この場合覆水盆に帰らずと言うか過去の事は変えられないし、また広い人間関係に根ざすなど容易に動かしがたい客観状況に原因がある場合などは更に、容易ではない。でもこの因果律使用法でやった方がうまい道を見つけられると思うのね。また因果律使用法で行けば自分のパーソナリティへの深刻なダメージを減らせるので未来のためにもいいと思う。

 

むろんそこが自分のこだわる項だったら簡単に抜くなんてできない。でも大概の場合はそうじゃないと思うんだな。自分では気付かなかったり、どうでもいいとこだったり。でそこを抜きゃあいいんだから、この「いじめは天の与えた試練」因果律使用法は結構いいと思うんだけどね(笑)。

 

というわけで単なる「いじめは天の与えた試練」という命題、少なくとも世間で言われているその言葉からは大きく離れてしまいましたが、今回この命題について考えたことです。

「いじめは天の与えた試練」これは半分正しいが半分正しくないと言うべきか。正しくないのは立身出世主義的な意味のそれ、正しいのは因果律を知る機会となること。広い意味での処世術を学ぶという機会になるのかな。処世術は必要ですよ。あなたはあなたで、私は私ですよね。当たり前ですよね(笑)。でもこれは処世術が必要ということじゃないんでしょうか。仮にあるとしても天とか神様はその人の根本的なパーソナリティは否定してないと思うんだ。だって否定してたら生まれて来てないだろう。仮にいじめられているとしてもあなたが生まれてきてここにいるということは絶対的な事実でしょ?ならば仮にあるとしても天とか神様はあなたのことを承認している。だからこの与えられた時間をより有意義に生きるためにいじめの悪循環からは離れた方がいいんじゃないかなーと思います。    

今回はいつも以上にわけのわからないことばっかり言ってるかもしれません。でもやっぱりいじめで死んだりする人もいるからさ、そこまで視野を広げれば結構根本的なところまで考えていかなきゃならなくなる。でもやっぱりわけがわからないので(要するにうまく考えがまとまってない笑)役に立ちそうなところだけ利用して下さい。で今回は抽象的過ぎたので次回はいじめと権力志向についてまた考えてみたいと思います。こっちの方がより直接的で役に立つかもしれないからね。