SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

続き

「いじめは天の与えた試練」の続きです。前回は何か神学論争みたいになったけど(笑)要するに、「いじめは天の与えた試練」という命題は実際それでよくなった人もいるし、「おそらくかなり有効→でも従える人と従えない人がいる→それは従えない人が弱いのか?→わからない→じゃあこの命題は正しいのか?(もし正しいのなら従えない人が単に弱いということになる)→正しいかどうかわからない」ということでした。正しいかどうかわからないのだから従えない人が一概に弱いとは言えない。

社会は生産性の高い人間を求めています。何故なら生産性が高い人間が多ければ多いほど社会の豊かさは増し日本の国際的立場も上昇するからです。「いじめは天の与えた試練」という命題も社会により適合しより生産性の高い人間を作ろうという社会の無意識的傾向が現れている面があると思うのです。

 

またわけがわからなくなりそうなので先に進みましょう。

まず前回言ったよう天や神様が真偽不明とすれば、究極的な意味では「人間はこうあらねばならない」ということが否定されます。例えば性格が明るくなければならないとか真面目でなければならないとか。人は太陽を仰ぎ活発的でなければならないとか。性格が明るいも暗いも真面目も不真面目も活発も不活発も選択の問題となる。究極的な価値というのを考えてみてよ。それは誰が決めるの?安倍総理が決めるの?最高裁判所が決めるの?東大の教授が決めるの?違うよね。で19世紀くらいまでは誰が決めるかと言えば神様が決めると思われていた。日本や中国など東アジア世界では天が決めると思われていた(西郷隆盛の「敬天愛人」とか有名だよね)。でも天とか神様はわからない(真偽不明)。ならば誰が決めるかと言えば、自分しかないよね。

天とか神様がわからない以上「お前は性格が暗いからこういう罰を受ける。この状況を改めたいのなら性格が暗いのを治せ」という天の声はないのです。それがあるとするなら、それは天ではなく自分の声なんだよ多分。

でここで一つ出る。性格が暗いとか明るいとか言うけど、性格が明るいというのが実際どういう状態を指すのかは非常にわからない。で何となくわかったとしても、それが絶対的に価値があるのかと言えば別にそうじゃない。ただうるさいだけは25越えたらマイナスだよ。表面的な明るいとか暗いとかよりも、人の気持もわかる(優しさ)とかすぐ自分を殺して迎合したりさないとか(強さ)とか、そういうのの方がよっぽど重要と思う。本質的には自分の性格を否定する方がよっぽど危険。相手にビクビクするとかあまりに合わせすぎるとか、そういうのは結構マズいと思うからね。例えばいわゆる陰キャと言うのかおとなしくてすぐ人と仲良くなれる性格でないとしても自分を否定しない方が絶対いいと思う。仮にいじめられている→自分の性格が悪いからだ、とか思うより、自分の強味は何なのか探した方がいい。それが将来の本当の宝になる。

 

でそれを前置きした上で「いじめは天の与えた試練」という命題はどう作用するのかを書きましょう。因果律として作用するのです。

例えば性格が暗かったりしたら他の人の元気もなくしてしまったりするので集団の中では不利な立場に置かれる場合があります。またより深刻なこととして低級な権力志向の人達の餌食になりやすい。弱そうに見えるからその種の人達の力や暴力の発揮対象になりやすいのです。

でこれは因果律ですよね。「性格が暗い→他の人の元気を下げる→いじめられやすい」、「性格が暗い→友達も少なくおとなしい→弱そうに見える→権力志向の人達のターゲットになりやすい」どちらもある意味の自然の理を表してるとは言えないだろうか。「いじめは天の与えた試練」、この命題は(さんざん苦心しながら言ってるよう笑)に絶対的なものではない。でも因果律を示す道具にはなってるんだと思うんだ。因果律とは物の道理と言うのかね。例えば物理や化学の法則は因果律。でも因果律はそういう単なる物だけじゃなく、人間にもあると思うんだ。世間ではこの意味での因果律を指す言葉もある。「処世術」だよ。ただ「処世術」って言ったら関連するハウツー本みたいのもいっぱい出ており、先入観の悪影響を受けるかもしれないから「因果律」の方がいいと思うから因果律と言うけど。

今回のテーマについて(今のところ)私が思った結論が、「いじめは天の与えた試練」この道具によって因果律を知ることができるということです。単純に「この命題は正しい」とすることと微妙な差しかないように見えるかもしれないけど、結構そうでもない、この違いこそがが重要だと思う。この命題を単に外から絶対的に押し付けられるのではなく、自分を保った上で生き方を選択する道具として使えるんだから。

ほんでまた、「いじめは天の与えた試練」これが道具とわかったら、少し心が軽くなると思うんだ。例えばいじめられていて仮に「死ね」とか言われてるとしても全否定されているわけじゃないんだよ。いじめられているとしてもそれは天や神様が「うわーお前が悪いんだー」とか言っているんじゃなくて、目の前のそのちょっと欠けた所もある人が(だって欠けているところが少なければそう容易に人をいじめたりしないから)ただ「お前が悪い」とか言ってるだけですから。だから例えば学校とか会社とかでいじめられて死ぬ人がいるけど、そういう人はやっぱり視野が狭くなってるんだなーと思う。他の人は「そんな学校や会社は辞めて新しいところでやればいいのに」って言うけどそれは多分当たっているんだ。天や神様から言われたら確かに死んだ方がいいのかもしれない。でも目の前のその多分あまり頭も良くない人が言ってるだけなんだから。例えばその人自身も多分全否定はしてないからね。自分で自分のことがわかってないんですよ(笑)。その人が嫌ってるのは因果律に適合しないところですよ。だからそこが修正されれば「あいつ何か変わったよね」とか言い始める場合が少なくない。稀に友達になる場合すら生じる(笑)。まあ友達とかならなくていいかもしれないが、ともかく最悪の状況は脱せられる。いじめられたらそれに引きずられて自分で自分を否定してしまうことも少なくない。でもそうしたらますますいじめられる危険も結構あるのではなかろうか。単純に自分を否定するのは弱さの現れであり、相手は弱いのをいじめるのが好きなんだからね。「ああこいつも反省してるのか、かわいそうだな」とかいうプチ仏心を出す可能性と「うわ、こいつますます弱くなってんの」となっていじめが強くなる可能性、どっちが優勢かと言えば結構きついものがある。だからいじめられて単純に自分を否定する、それは悪循環であり、しかも悪循環と見えるのはおそらく錯覚ではない。世界は広いですよ。ありとあらゆる変な人がいるのがこの世界ですよ多分(笑)。だからそういういじめたりする奴もいるんだけど、同時にどれだけ変わった人であっても私がいて悪いとか思う必要はない。マジでない。この世は変人が超めちゃくちゃいっぱいいるんだから(笑)。

 

ここで、具体的な因果律を知りたいと言う人がいるかもしれないけど、因果律はいっぱいあり過ぎるからその都度見いだして行くしかない。このブログでも後々いくつか具体的な因果律を言うこともあろうけど、因果律とか誰でも自分の周りで見つけられると思う。

因果律の使い方を言おう(今日はこっちの方がテーマだから)。例えばさっき言った性格が暗いを選択したとする。でも性格が暗くても「他の人の元気を下げる」の項を消せば大分良くなる。例えばみんながワーッと盛り上がっているときはせめて笑顔でいるとか、やたら人や人のすることを否定的に捉えないとか。「性格が暗い→他の人の元気を下げる→いじめられる」の真ん中がなくなるからいじめられなくなる。まあ性格が暗い関連の因果律はこれ一本じゃないからあれだけど、ともかく真ん中の項を消せば結構直接的な効果があるんじゃないかと思う。これだよ。単純だけど実際に効果があるのは単純な事である場合の方が多いからね。例えば「性格が暗い→そう思われるのが嫌だから無理矢理明るく振る舞おうとしすぎる→鼻につく→いじめられる」という因果律もあるよね。これも真ん中の項を抜けばかなり良くなるんじゃないかな。「あーやっとあいつ良くなった」みたいな感じ、一番ムカつくところがなくなるんだから相手も若干スーッとする、こんな感じですよ。

何かの具体的なきっかけがあって関係が悪化していじめられるようななった場合とかもあろうけど、その場合その「きっかけ」のところに因果律がある可能性が高い。あーあの時あんなこと言ったのがまずかったのかなとか、あの時肩がぶつかったのに何も言わなかったのがまずかったとか、あるじゃん。この場合覆水盆に帰らずと言うか過去の事は変えられないし、また広い人間関係に根ざすなど容易に動かしがたい客観状況に原因がある場合などは更に、容易ではない。でもこの因果律使用法でやった方がうまい道を見つけられると思うのね。また因果律使用法で行けば自分のパーソナリティへの深刻なダメージを減らせるので未来のためにもいいと思う。

 

むろんそこが自分のこだわる項だったら簡単に抜くなんてできない。でも大概の場合はそうじゃないと思うんだな。自分では気付かなかったり、どうでもいいとこだったり。でそこを抜きゃあいいんだから、この「いじめは天の与えた試練」因果律使用法は結構いいと思うんだけどね(笑)。

 

というわけで単なる「いじめは天の与えた試練」という命題、少なくとも世間で言われているその言葉からは大きく離れてしまいましたが、今回この命題について考えたことです。

「いじめは天の与えた試練」これは半分正しいが半分正しくないと言うべきか。正しくないのは立身出世主義的な意味のそれ、正しいのは因果律を知る機会となること。広い意味での処世術を学ぶという機会になるのかな。処世術は必要ですよ。あなたはあなたで、私は私ですよね。当たり前ですよね(笑)。でもこれは処世術が必要ということじゃないんでしょうか。仮にあるとしても天とか神様はその人の根本的なパーソナリティは否定してないと思うんだ。だって否定してたら生まれて来てないだろう。仮にいじめられているとしてもあなたが生まれてきてここにいるということは絶対的な事実でしょ?ならば仮にあるとしても天とか神様はあなたのことを承認している。だからこの与えられた時間をより有意義に生きるためにいじめの悪循環からは離れた方がいいんじゃないかなーと思います。    

今回はいつも以上にわけのわからないことばっかり言ってるかもしれません。でもやっぱりいじめで死んだりする人もいるからさ、そこまで視野を広げれば結構根本的なところまで考えていかなきゃならなくなる。でもやっぱりわけがわからないので(要するにうまく考えがまとまってない笑)役に立ちそうなところだけ利用して下さい。で今回は抽象的過ぎたので次回はいじめと権力志向についてまた考えてみたいと思います。こっちの方がより直接的で役に立つかもしれないからね。