SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

いじめをする人

今日はいじめをする人ってどういうものなのかについて考えてみたいです。私のブログはいじめをする人とか無関心な人に対する敵意を書いていることが比較的少ないと思う。ともすれば彼等彼女等に迎合するのを勧めるようにも読めるところもあるかもしれません。もちろん私はそう思っていません。いじめをする人は本当どうなんかねと思うし、無関心な人も良くないですね。しかし彼等彼女等を非難するだけては上手く行かないとも思ってる。だから今日はいじめをする人に対する私のスタンスをまず書き(無関心な人については後日書きます)、なぜ非難するだけては上手く行かないのかも書きます。これは一つの戦略にもなり得ます。

 

まずいじめをする人は悪いと思います。良くないを通り越すと私は思う。何故かと言えば、いろいろあるけど一番大きいのは理由もなく精神的に傷付けるからです。その人の尊厳を傷付けると言うかね。

まあ良く考えれば人間はそんなに善でもいられないと思うんです。例えばとんかつ食ったりから揚げ食ったりしますよね。でもあれ豚とか鶏とかを殺して食ってるんです。子豚とか飼ったりした人はわかると思うけど豚も生命なんですね。

だから肉食は良くないとか言ってヴィーガンになったりする人もいますが植物だって生命だし、作物を作るためには農薬で虫を殺したりしなくちゃならない。大体道を歩いただけでアリンコ踏んだりしてるよね、多分。だからとどのつまり人間が生きてたら他の生命を奪わなきゃいけないのね。他の生命を奪わないことが善とすれば人間は善ではいられない。おそらくは他の生命を奪う=悪ということではないと思う。生命はそこまで至上の価値ではない。だから生命はすぐに奪われる。私達だって例外じゃありませんよ。そりゃあいつかは死ぬし、もしかしたら交通事故とか地震とかで死ぬかもしれない。しかしそれでも世界は回る。生命って次から次へと生まれ、受け継がれる。だから生命が至上の価値で、生命を奪う=悪ということはないと思う。

でも生命というのは天から与えられたものでそれを意味もなく奪うのは良くないですよね。で精神を傷付けるというのは生きながら生命を奪うようなところがありますよね。ここでやっといじめの話に戻るんですが(笑)いじめが何故悪いかと言えばここにあると思う。いじめられた人は精神的に殺されるような気がする、ここがいじめの一番いかんところだと思うんです。これが他人を傷付けるということです。よく軽く「他人を傷付けるのはいけない」とか言うけど、そこにはかなり本質的なものがあると思うんだけどな。

まあお金を取るとかぶん殴るとかがあればそれも相当きついが、どんないじめにも共通することとして他人を傷付けるということがあるよね。しかもとんかつ食べたり野菜サラダ食べたり道を歩いたりという避けられない理由もなくですよ。ここも大きいね、と言うかここも肝なのかもしれない。

理由もなく他人を傷付ける、これがいじめの本質とすればいじめをする人は非常に低級だと思います。権力志向や百姓気質の呪縛があるとしてももっと他のことに向けろよと本当思いますね。いじめをする人はそれができない。で一番やっちゃいけないに近いこと、理由もなく他人を傷付けることにエネルギーを振り向ける、だから非常に低級なのです。自分一人で生きてるわけでは絶対ないのにあたかもそれができてると勘違いしている。そして相手が人間ということも忘れて、自分の要求だけをする。しかもその要求が生産とか全体の利益とかに全く結び付かない単なる自分の価値観だけで決められてる。ほんで最後の正当化は暴力による。本当の本職の人が来たら奴隷のようにひれ伏すのにね。本当悪い、馬鹿過ぎて悪いに至っていると思う。

 

 

では何故こういうことを言ってる私がともすればいじめをする人に迎合するようにも読めることを書いているか。それは一見非常識な態度に見えるかもしれない。しかし私はここにも本質的なことが多分含まれるように思うのです。

まず忘れがちなことかもしれませんが、いじめをする人でも生まれた時はかわいい赤ちゃんだったし、2-3歳になって言葉を喋れるようになり、4-5歳から幼稚園や保育所に行き、7歳くらいから小学校に行きました。いじめをする人でも家族や親戚や友達がおり、いじめをする人でもペンで手を刺されたら「痛い」と思い、他の人から「うぜー。消えろよ」とか言われたら心の中では涙がにじむ。

まあ要するにいじめをする人でも人間なんです。だからいじめをする人を排除したり、完全にひざまづかせたりはできないんですね。それをすればこっちがその人をいじめることにもなる。「そっちが先に始めた」というのはちゃんとした正当化にはならないと思う。だってAという行為が悪いと言って同じAという行為をしたら意味ないでしょう。

これは現実的にも言えてて、いじめられて相手を刺したりしたら社会から非常に厳しいペナルティを課されるし、仮に訴訟で勝ったとしてもその人がいじめの呪縛から逃れた幸せな人になれるわけじゃないと思う。克服してないからそうなるんですよ。私の中学校時代の同級生で一人かわいそうな子がいまして、何かいじめられていたんですね。クラスが違かったから詳しくは知りませんが中1くらいからいじめられてて途中から学校に来なくなった。で高校は入ったんだけどすぐやめて、何かようわからなくなった。で19か20くらいの頃から風俗嬢になって、まあお金はあったみたいなんだけど20代前半で自殺した。デタラメな生活になっていてクスリとかもやってたみたい。小学校から知ってるけど普通の人ですよ。ちょっと変わってるとこは確かにあった。無神経と言うかそういうところがあって、しかも本人はめちゃくちゃ傷つきやすいんですよ。あといじめられる頃は結構ポチャになってた。でもそれを含めても普通の人ですよ。性格も悪くないし、家も普通だったし。お母さんとかおじいちゃんとよく買い物に行ってたの覚えてますよ。まあその頃は私も今書いているようなことは全然わからなくてアドバイスとかもしてやることはできなかったんだけど(そういう間柄でもなかったしね)、結局あの子はいじめられてたことを克服できなかったんだと思う。バカと言えるくらい明るくなったと思えばめちゃくちゃ暗くなったりしてたみたい。物凄く悪そうな奴と付き合ったりしてたから、その時昔いじめてた奴と会えば半殺しにもできたのかもしれないが、元々はそういう乱暴な人が好きなわけない人なんだな。優しい人が好きなタイプの女の子だったと思う。まあこの子のことは私がいじめについて考えることの原動力の一つにもなってるのですが、でもリアルタイムのあの頃、あの子はいじめられてたことを克服できてなかったように思う。強く思う。

で訴訟とかで勝っても本質的には同じじゃないのかと思う、と言うかそう感じるんだね。あの子とは違い社会が味方についてくれるということだから、条件は良くなると思う。克服しやすくなると思う。しかし結局は外の力に頼ってそこから逃げている感がぬぐえないんだね。だから「これで大丈夫!」という感じもしない。それよりは「他の所に行って大丈夫だろうか」という疑問を抱く場合もあると思う。こんなこと言うと「じゃあ克服するって何なのか?」って言われると思う。それはこのブログ全体で書くことでもあるが、一つは「いじめている人と融和する」ことと思う。融和だからこっちが隷属することじゃないよ?いじめられたくないから相手の配下になるようなことは駄目。まあこれについてもそのうち書くかもだが、ともかくそれは違う。融和とはそんなのじゃなくて、いじめている人をある意味理解して、その人と人間的な繋がりを持つことだと思う。友達になったりする必要はないんだよ、でも「私はあなたを怖れてない。だかこれは迷惑だよ」と言えて、相手が「お前のことがよくわかってなかった。悪かったな」と言えるような関係とでも言いますかね。ここで「悪かったで済むか!」と言えばまたサバイバルの戦いになって解決しない。だから克服に当たってはある程度感情をコントロールする成熟性というものも必要になると思う。仮に学生の人がこれを読んでたとしたら10代の人に成熟性とか求めるのは酷とは思うが、今その人の人生にそういう事象が現れているとすればその人の人生はそれ(成熟性)を求めてるんだよ。初めから完全なものを持つ必要はないが、その第一歩を刻むことはすごく意味のあることじゃないのかなあ。

でまあ、もう二度と顔も見たくない、で終わってもいいんだよ。だから実際に融和の会話とかを交わす必要もない(あった方がいいけど)。でも心の中でその人を許せること、これだね。軽蔑するでもなく、迎合するでもなく、「ああ、あの時はあいつもきつかったんだろうな」とか「あいつも成長してなかったんだろうな」と見られるようになること。こんなのかな?

ただ、現在いじめられてる人は「あの頃」じゃなくてリアルタイムでこれをやらなきゃならない。リアルタイムの方がハードルは高い。でも原理は同じと思うのね。でこれがリアルタイムで出来れば、状況も変わるんじゃないかなあ。だって相手を人間として理解するということだから。理解してる!とアピールするのはウザいしほとんどの場合内容的にも誤ってるけど、そういう本当の理解は人に安心感を与えるものだからね。相手は首をかしげると思う。(何で自分はこいつをいじめてんの?)っていう内心が生じることも少なくはないように思う。

 

まあ若干理想論ぽくなってるかもしれない。しかし相手を物理的に排除するとか訴訟に勝つとか言うよりは現実性はあるんじゃないでしょうか。まあ一番現実性があるのは逃げる・避難するということで、それは決して悪手ではないのですが、逃げる避難するだけじゃ私の同級生のあの子みたいになる危険もあるので、逃げつつ克服を目指すというのがいい方向のように思うんですが。学校や教育委員会に頼むというのも現実性がありますが、これは効果のある場合とない場合の差が激しい。テレビでいじめによる自殺のニュースが出る場合、大体能力不足な担任、校長、教育委員会などが登場しますよね。まあ先生と協力しながら解決するというのは非常に有効な手段であるから今後これも多分書くと思います。でもこの手段にも効果が安定しないというマイナスがある。それに対し自分で克服するというのは効果が絶対ある。まあ一言で言えば強くなることに近いから。そういう強さは相手はわかるから次第にいじめられなくなる。で何より自分の中で乗り越えられるから後に引きずらなくなる。だから現実的な手を選びつつ、克服を目指すというのはとってもいい戦略のように思うのです。

 

 

ということで今日はこのくらいで。最後に一つ。学生時代はヤンチャなほうが幅をきかすのでいじめる人ってヤンチャぽい人の方が多いと思う。でもそういう人って勉強とかしない場合も多いので大人になってきつい職場になることも少なくないのね。建設とかね。建設きついよー。特に夏は本当たまらんと思うね。でもそういうきつい仕事しながら生きてるのね。仕事してる時は世の中の役に立ってるから。ほんでそんなやってられんような仕事に毎日行って生活費を稼ぎ出し、生きて行ってるんだよ。ここにそういう人たちの非常な人間くささが見えませんか?いじめられた人は学生時代はその人を本当ゴミ、クソ、バイ菌とか思ったかもしれないけど、その人はゴミでもクソでもバイ菌でもないんだよ。

それとかこの前家族が入院してお見舞いに行ったら病院に本当お相撲さんみたいな看護師がいたのね。マジですごい肥満。マツコとかよりデカいと思う多分(笑)。でその人がいじめられてたかは知らないけど少なくとも一般的に言えば激ポチャ、超デブ。でもその人親切で、明るくて、他の看護師の人とも仲良かった。うちの家族もよく面倒見てもらった。ポチャデブが嫌いな人はその人をゴミ、クソ、バイ菌みたいに思ったかもしれない。でもその人はゴミでもクソでもバイ菌でもないんだよ。人間なんだよ。これが融和ということだと思う。いじめる奴もいじめられた人もね。理想論に見えるかもしれないけど、ここに一つの解決のヒントはあると思います。

まあいろんな解決の仕方があると思うからね、これが最上だとか、こうすべきだとか言うつもりはないけど、今日書いてるようなことは言いにくいことだとは思うのね。だってこんなこと言ってるコメンテーターとか教育学者とかあんまり見たことないよね。多分いじめの被害者とか、テレビの場合視聴者からクレームが入るんだろうね。でもそのクレーム対象(?)のこの方向が実はいいものを含んでいるのかもしれませんよ!