SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

学校に行かないということ その2

では久々に書きます。「学校に行かないということ」の3と4を書いてなかったからね。今はちょうど夏休みで、プレッシャーのない冷静な心で接することができるかもしれないので、ちょうどいいですね(笑)。

 

学校に行かないことは次のメリットを失うということで

3「学校に行っている=怠けてない」

4みんな行っている学校に行くことは、変わった人、変な奴じゃない

つまり学校に行かないということは

・怠け者と思われる

・変な奴と思われる

というデメリットがありうるということであります。これは多くの場合当たっているような気がする。だから親は怒るし悩むし、本人はプレッシャーでとてもきつい、つぶされそうにもなる。お前の子供は怠け者だ、変な奴だとか言われたら親はイヤでしょうし、責任も感じる。お前は怠け者だ、変な奴だとか言われたら本人はとても傷付く、どうしたらいいかわからなくなって時には死にたくなったりもする。

でもね、こうやって自分の敵と言うか苦しめているものの本体が見えたら少し楽にならない? わけのわからないまま全的に、存在的に、ウワーッと圧力を受けるのよりは大分いいんじゃないでしょうか。

 

私は無理して学校には行かなくていい、まあ時には行かない方がいいという結論です。だからこの3と4についてしっかり考えねばなりません。そこでまず3について考えます。

 

でまず、ここで普通のブログだったら学校に行かないのがいかに怠け者でないかの解釈等を繰り広げると思うのですが、これはリアリズムに反している場合もあると思う。普通の人といじめ被害者を二分化して戦うことにどれだけの意味があるのか、いじめ被害者だけの国や社会が作れるのか?世の中の少なくとも半分の人は他人の事など無関心な人なのでそういうスタンスでは解決しないような気がするのです。

で学校に行かない人はやっぱ活動的ではないと思うんだ。外でみんなでワーワー言って遊ぶより家の中で一人とか少人数で遊ぶ方が好きみたいな。また怠け心もあるかもしれない。きついのが嫌だとかね?あーもうイヤ、学校行きたくない、寝ときたいみたいな(笑)。

でもさ、ここからが重要なんだけど、「お前怠け者だなぁ」とか言われたら誰でも嫌ですし私だって嫌ですが、誰でも怠け心ってのはあると思うんですよ。どんなに友達多くて中心メンバーみたいになっている人でも「あーもう今日きつい、学校行きたくなーい」という日はありますよね(笑)。でも日本の社会では怠け者ということがまさに存在を許されないような者として見る傾向が強いのね。ここですよ、まず。ポイントは。つまり、私の論で一貫してる消すに消せない日本人の農民気質なんですよ。

世界の文明の進歩はある意味人間がどれだけ楽に生きれるかをテーマにしているが、日本ではその結果とか全く見ずにともかくがんばっている、汗水垂らして耐えている、寸暇を惜しんでエネルギッシュに動く、そういうのに価値を置きすぎている。東南アジアとか南米とかだったら怠け者の人とかメチャクチャいっぱいいますよ(笑)。「だからあいつらは貧乏なんだ」と日本人は自己正当化するでしょうが、日本より遙かに高い一人当たりgdpを持つルクセンブルクやスイスでも日本人みたいではないですよ。大体アメリカが「あくせく働いている人は金持ちではない」ですからね。アメリカで言う金持ちとは資産を持っている人ですよ。株持ってたり、ビジネス持ってたりね。

確かに一生懸命やるのはいいことだろうが、それ故にゆっくりした歩みが好きな人を排斥するのは、また逆に悪になるんじゃなかろうか。人間は自分のために生きるのではない、社会のために生きるべきなのだ、日本人にはこういう心性が奥にあるのではなかろうかと思う。まあここら辺は政府も認識してるようで残業の厳格化とか有給の半強制取得みたいのもやってますからね。確かに商売や事業ではここらは難しい問題なんだよ。でも学校でしょ?(笑)学校に売上とか倒産とかあるの?(笑)。だからここはもう通り過ぎるべきじゃないかな。

まあそれにはいろいろな価値観があろう。だから何が絶対的に正しいかとかわからない。でもここのポイントは要するに、もっと結果を見た方がいいんじゃないかということです。それも他人や社会における自己像に囚われるよりも、自分の心とマッチしたやり方でね。単なる結果じゃなく、自分の人間+結果でね。

むろん学校に行かないのが純粋に怠け心の人はほとんどいないと思う。行きたいのだけどクラス全体やクラスの人が怖くて行けない、そういう人が多いと思う。しかし学校に行くのが面倒くさい、きついというのはそれこそ誰にでもある共通項と思うのね。そこで行かないという道を選択する。ならば怠け者の要素を完全に払うことはできないと思うの。そこで「怠け者じゃないと思え」ということを強制するのは無理がある。もしかしたら教育委員会とかは味方をしてくれるかもしれない。しかしそれで本人はどうなるか?ますます弱くなるんじゃないでしょうか。特別の保護が必要な人になってしまう。特別の保護が必要な人はそれがないところでは生きられない。だからいじめに無関心な校長や担任教師に当たれば全く行けなくなる。そしてより怖いのは高校より先には特別の保護をしてくれる所は基本的にないということです。だからここは特別の保護を求めるよりも「うむ、確かに今は自分は怠け者の要素もある」と認めることの方がいいんじゃないでしょうか。それは強さの第一歩につながる道のように感じる。

実際今は怠け者と言われてもいいじゃん。それで何か実害があるわけじゃないし、学校に行かなくて「いや、私は怠け者じゃない」とか言っても、わかってくれる人はわかろうがわからない人はわからないという現実は変わらない。で重要なのは多分、多分だけど、怠け者の要素もあるんだよ。本当に怠け者の要素が一切なければ違うけとほとんどの人はそうじゃないよね(笑)。怠け者の要素もある。だからそれは客観的にも間違っていない。でもそれは全然おかしいことじゃない。だって誰でも怠け者の要素はあるんだから。まあ学校生活が非常にうまく行ってたらそれでも行くけど、あんまりうまく行ってないから「もういいや。行かね!」みたいな。ほとんどの人はそんな感じじゃないのでしょうか。だからいいんだよ、それで。無理矢理行くよりは。でも一生怠け者だったら寂しいから、ここで重要になるのが「強味を生かす」ですよ。学校なんて10代の数年間しか関係ないんだから、そこだけで自分を規定したり諦めたりしては非常にもったいない。自分は何が好きかとかどういうことだったらうまくやれそうかなどをしっかり考えて行ってたら、ただ形だけ無欠席で学校行ってたよりも遙かに多くのものをつかめるのではないだろうか。その時隣のオバサンから「怠け者」と思われたとしても、20代30代で自分のやること掴んでたら多分普通にやってきた人よりも褒められますよ(笑、まあ褒められたりしなくてもいいけどね)。まあ自分のやること掴めない可能性もあるが今は掴めると思ってやれるし、でそういう気持ちで行ってたら大体掴めるからね。だから3については「怠け者」という批判とか相手にしない、それよりももっと大事なものを掴もうということです。これやれば3のデメリットなんて吹っ飛ぶよね。

 

で次の4、まあこれも大体同じですね。「怠け者」が「変な奴」になっただけで。ただここではさっき外した非活動的みたいのかメインになる違いがある。「陰キャ」みたいなものですかね。「学校も行ってない=陰キャ過ぎる」そう思われるのがすごく苦痛だから無理矢理学校行くみたいな。超陰キャの烙印を押されてしまう、これは学校に行かないことのデメリットとして確かに存在するように思う。

でここで重要なのはまず自分の価値観を広げることじゃないでしょうか。「陰キャと思われるのがイヤ」ということは他でもない自分自身がそのよくわからない「いけてる/陰キャ」の二分法を受け入れてるということだから。まあそれは今の日本の風潮で個人が受け入れる受け入れないの枠を越えているようにも思える。しかし今までの世界を作った発明家や起業家や芸術家の半分以上は陰キャですよ。その人達が作った機械やシステムがなけりゃ最高にいけてるとされているような芸能人やお笑い芸人も何もできないよ。「いけてる/陰キャ」の二分法を作るのにメチャクチャ貢献してるのが電通と思いますが、電通の神とされている吉田秀雄とか陰キャの方に近いですからね。まあ陰キャと言ったら語弊があるけど全然いけてはないですよ。超貧乏で生まれ、東京帝大には言ったが半分ヤクザと思われていた当時の広告業界に入って、戦時統制下の内務省とコネを作り、半分ズルみたいな形で会社をメチャクチャ大きくしたんだから。面白くもないし、さわやかでもない。どこか暗い陰が常にある人ですよ。で世の中は半分以上そういう人が動かしてるの。いけてるとか陰キャとかそういうのがある意味絶対的な強さを持つのは精々学生時代くらいで、25才越えたら変わってくる。性格というのは中々変わらない。逆にアメリカやヨーロッパでは自分の性格を変えようとすることの方が好ましからざることになったりもする。誠実じゃないみたいなイメージかね。そりゃ部分部分こういうところは良くないなというのは変えた方がいいだろうけど根本的な性格は中々変わるものではないし、変えない方がいいものである可能性すらある。陰キャというのは根本的な性格と関わることが多いと思う。でも「学校行かない=超陰キャ」このデメリットも絶対的なものでは全くないですよね。何か「陰キャ」とか何とかとかそういうのどうでもいいからもっと本当のものが掴みたいと思いませんか?それですよ、本当のものを掴むんですよ。「いけてる/陰キャ」という変な二分法から離れ価値観を広げて行く、それは本当のものを掴む第一歩になるのではないでしょうか。こう思えばいじめられて学校に行かなくなったのもある意味幸運の要素がある。少なくとも利益となりうる要素は絶対にある。こういう機会を捕まえることはただ単に無理して学校に行くよりも遙かに価値があるんではないでしょうか?

 

ということで「学校に行かないということ」のテーマを一応終わりにします。まあ学校に行かないことには確かにデメリットはある。しかしそれは回復不能なデメリットでは全くなく、逆にもっと貴重なものを掴むチャンスとなりうると思うのです。だから学校に行ってない人も絶望したりする必要は全くない。それどころか単に形式的に学校に行くだけの人よりももっと大きな夢を持てるのかもしれないですよ!