SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

強味を生かす

今日は強味を生かすことについて書いてみようと思います。前回の学校に行かないことの後半が残ってますが、先に強味の方について書いていた方がいいと思うからです。

強味を生かすは私の中心概念の一つで、様々なテーマで登場するのですが、現在いじめられている人は自信を失っていて「強味を生かす」とか言っても全然白々しく聞こえるようにも思ったのです。「強味を生かす」は面前で話していたら何となく伝わるものなんですよ。そのことについて特に説明しなくてもね。何かよくわかんないんだけど結構そうと思う。しかしこれはブログで完全書面みたいなものだから、全然伝わってないかもしれない。なのに就職だの逆転だの言っても全然リアリティがないかもしれない。だから今回は先にこの「強味を生かす」について説明します。

 

まず「強味=長所」ではありません。「長所」と言えばそこに先に社会によるフィルターがかかっているからね。学校から見た「長所」と会社から見た「長所」、家庭から見た「長所」多分全部違うと思う。中小企業だったら社長の性格が強く反映される所も多いから会社ごとに「長所」が違うのかもしれない。

「強味を生かす」の強味は長所ではなく「その人」です。その人の全部が強味になりうる、そしてその中から何らかの生産的要素に結び付きうるものが「強味」となる。でもここで「生産的」というフィルターをあまり厳密に捉えない方がいい。ともかく日本は横並び意識みたいのが強くて、みんなが認めているものしか認めたがらないがこれは人間として結構情けない態度ではないのかと思う。最近先進各国の若者の意識調査があったけど肯定的イメージについては日本人ほぼ最低ですよ。日本の若者は不幸みたいな感じがあるね。でもそれは外から与えられたものではなく、自分でそうなっている部分がある。その理由の一つがこれ↑と思う。アメリカではどんないじめられっ子でみんなから変と思われている人でもちゃんと自分の意見を言うんだよ。多分自分を肯定してるんだよ。でも日本では見方をちょっと誇張的にすると誰も自分を肯定してないんですよ。カッコつけ儒教とウンコ徳川幕府の影響かとも思うけど、精神的には明治維新前の要素も相当残していると思うね。とまあそんなのはいいけど(笑)、日本ではある意味みんな自分を肯定していない。そして肯定するのに客観的な飛び抜けた業績を求める。東大に現役で受かるとかスポーツで県大会上位に食い込むとか親や一族が大変社会的地位が高いなど。そういうのがあって初めて自分を肯定するのが「許される」みたいなね。

でもこれ完全な誤りと思う。孔子とかこんな感じなんですよ。何か偉い厳しくて、謙虚とか礼とかバカバカしいこと言ってる。しかしこれは人間を非常にバカにした話だと思う。

人間と言うか生命自体をバカにしてるよ、あいつら。例えばね、蚊が木星で発見されたとする。エウロパとかでね。蚊ですよ、蚊。人間に病原菌を移したりする悪いあいつですよ(笑)。しかし木星で発見された蚊を殺したりしたら世界中から大悪人とされるだろう。つまり蚊でさえも、それだけ貴重なんですよ。生命である、それだけで価値なんです、本来はね。だって作れないもん、まだ。何か動物の細胞から何かとってきて操作を加えていろいろやるということはできるよ?でも何もないところから生命を作ることは現在のどんな最先端の科学技術を駆使してもできない。でしかも、人間は蚊とは比べ物にならないくらい複雑で、多分高等と言っていい生物生命なんだよ。人体は小宇宙とか言うけど本当宇宙の星と同じくらいの数の細胞がある。そしてその非常に微妙な働きとバランスの上に初めて人間というものがある。

天才と言われる人がいるよね、モーツァルトとかアインシュタインとか、近年ではイチローとかかな? でも細胞や神経や骨格、筋肉や皮膚の作りなどは私達と全部同じなんだよ。作り自体は一緒なの。これすごくない?

つまり要するに人間はそれ自体で価値があるの。私が言う「強み」の源泉はここにある。何か自分の狭い価値観で勝手に優劣を決めて、自分の価値観に合わない者をすぐ「小人」とか言っていた孔子が人間をバカにしているというのもここにある(本当あいつは何の権限があってそんなこと言ってたんだろうと思う。今の中国が人を人とも思わない本性のようなものを持ってるのもあいつが関係あると思うし)。まあ儒教はいいや、確かに儒教にもいい部分はあるからね。ただあれは古代のものだからあまりに視野と価値観が狭くて有害なところが非常にある。

しかし私はこう言っているが世間でこれを言ったら「キチガイ」ですよね、私。孔子は糞とか言って(笑)。つまり社会は前者を基準に動いているんです。少なくとも日本はそう。そんな簡単に自分を肯定したりするのはアホなんだよ、自分を肯定したいなら恵まれた才能、少なくとも果てしない努力の後にしろよ、という空気が非常に漂っている。でもそれは正しいのでしょうか?価値観の問題だから正しいとか正しくないとかは言えないかもしれない。しかし正しいとしてもその価値観は人を幸せにするでしょうか?その結果がアメリカやフランスドイツなどより遙かに低い自己評価の日本の若者、G7の先進国なのに自殺率が非常に高い日本の若者に現れているのではないかと思う。自慢の経済も停滞感が非常に強く、例えば70年代からのアメリカの停滞を打ち破った象徴のような人物、つまりスティージョブズみたいな人も生まれそうもない。日本でも松下幸之助さんや本田宗一郎さんは今の日本人とはかなり違うからね。もっと自分で考え、厳しい統率をひく一方個人個人の人間については自由を非常に大事にする感覚でしたよ。ごく最近は少し変わってきたけど大勢は江戸時代以来からの伝統的日本の感覚だよね。でもこれ嫌だよね?ならばまず自分がそうしてみようではないか。退屈な昨日の続きをするよりそっちの方がいいんじゃなかろうか。

 

これが「強味」の基礎です。何故それが強味なのか、その源泉は人間であることにあります。だから理論的にはどんな人にも強味はあります。

ただ対象との関係で強味になるものとならないものが分かれる。例えば暴力団に入って出世しようと思ったら、法律とか秩序とかクソくらえと思っていて、相手がかわいそうで普通の人なら涙しちゃうような場面でも無視できるなどが強味になる。こういうのは普通は強味と捉えられないけど「暴力団に入って出世しよう」という対象との関係では強味になる。この例が一番わかりやすいと思う。

だから例えばいじめられて立ち直れない、人が怖くてすぐビビってしまう、このブログを読んでも全然変わらない(笑)とかいう人がいるとする。強味なんて全然ない?ありますよ。それだけ繊細でいじめられている人の気持ちがわかるなら児童福祉司とか社会福祉士とかなったらいいプロフェッショナルになりうると思うよ。いじめられている人がまず求めるのは気持ちをわかってもらうことだよね。それがわかるんだから。しかもいじめをなくしていきたいという強い気持ちもある。これを強味と言わずに何と言おう。

こんなの。これが私のいう「強味を生かす」。だから強味がない人、少なくとも素質の段階ではそういう人はいないと思う。半分は意思の問題だね。「強味を持ちたい」と思えば何らかの強味は見つかるものなんだと思う。まあそれが普通の物売ってる会社を対象としても強味たり得るかはわからないが、それを強味とする対象はある。

まあこのテーマも一日で語り尽くせるものでは全くないのであれだけど、こういうことをちょっと意識においたら今絶望してるような人も変わっていくのではないかと思います。

自分の強味は何か考えよう!でそれが何の職業に結び付くか少しずつ考えよう、ということです。

どうせもらった生命だから、ああしなきゃならないとかこうしなきゃならないとかないんだよ。それよりもどうすれば自分が活きるか、これを考えた方がいいよね!