SS~いじめ・パワハラについて考察するブログ

いじめやパワハラについて考えていきたいと思います!

(若干改訂)いじめは天の与えた試練という考えについて

 

新しいことを思い付いたので久々に書きます。テーマはタイトルの通りです。

よく「いじめは天の与えた試練だ」という言い方がされることもあります。「天」の代わりに「神様」という言葉が使われることもあります。その人が成長するために必要な要素がある場合、それを学ばさせるために天や神様が逆境を与えるというような考え方です。

「いじめは天の与えた試練」という考え方のパワーは結構あります。そう思っていじめに耐えることができたという人もいると思います。実際それによりいじめられる前より何か成長のようなものを遂げられたら素晴らしいことですよね。でもそう思えない人もいると思います。またそう思うんだけどやり切れない人とかも。そういう人は「意志が弱いんだ」とか「結局弱い」とかで片付けられがちかもしれません。でも必ずしもそうじゃないと思うんです。「いじめは天の与えた試練」という考え方(命題)にも問題があると思うのね。

この命題は少し悪意的に換言すれば「結局お前が悪いんだからこうなる。嫌なら変わるしかない」という押し付けがましい意味にもなる。そこには社会に適合しより多くのマネーを稼げる人間にのみ価値があるとする一種の立身出世主義のようなものがあると思う。日本では江戸時代に「心学」(しんがく)という立身出世主義っぽい思想を幕府が大々的に推し進め(石田梅岩とかが有名です)、明治維新以降はその傾向が更に強くなった。今度お札の肖像になる渋沢栄一さんなんか結構その権化ですよ(笑、少なくともそういう一面はある)。そういう精神風土がある日本ですから「いじめは天の与えた試練」という命題にも社会中心主義の要素はかなりあるんじゃないかと思う。

でそれはわからないけど、ともかくこの命題も欠けたところはある。だからついて行けない人も少なくない。この命題は大変魅力的でもあるのですが、一方視野の偏った、人間そのものをあまり大事にしていないような感じもあると思います。みなさんはこの命題をどう思われますか?

 

で私もこの命題について考えて、思いつきました!(笑)まあこれは私のブログなので私の考えを書く、だから少し上から目線に感じるかもしれませんが、私のは適当な思い付きなので、これを一つのきっかけとして後はみなさんそれぞれ考えて下さい。

 

まずこの命題の本当の真偽はわかりません。天や神様の存在がわかりませんから。天や神様の存在がわからない以上、この命題の真偽などわかるわけがない。

でより重要なことは仮に天や神様の存在を仮定したとしても、この命題の真偽はわからないということです。まあこれは言うのが非常に難しいんだけど、天や神様が存在したとしても、一人の人間の生き死にや成功不成功に関心を持ってるとは言えないような気がするんです。例えば地球が出来てからだけでも46億年くらい経ってるんだけど、人間は長生きするようになったと言ってもせいぜい平均70年とか80年でしょ。地震とか交通事故とかで人間は非常にショックを受けてるけど、もし天や神様が人間の生き死にに価値を見ているのならそういう次第にはしないように思う。西洋でも善人は早死にするという言葉があるとかないとか。でもこれは絶望ではないと思う。天とか神様にとって人間は価値があるんだよ。じゃないと作らない。しかもただ作るだけじゃなく天や神様を認識しうる存在として作ってるんだから結構価値あるものとして作ってると思う。ただその価値を生き死にとか成功不成功に置いてるわけじゃないんじゃないかねぇ?と。もし成功に価値を置いてるなら大抵の人間に成功させるだろう。でも成功できる人間はごく一部。しかもだよ、何が成功かわからないという面もあるんだね。例えば織田信長とか成功者なんだろうけど、最後は部下に反乱起こされて燃え盛る城の中で念願叶うことなく切腹している。一番神様に愛された存在として西洋ではダントツのイエスキリストは死刑で死んでるんだよ。それなら安定した職業があって健康でまあ仲のいい家族を持ってる普通の人の方がよっぽど成功してるかもしれない。

「いじめは天の与えた試練」は社会に適合した人間になれば君は苦しみから逃れられると言ってるところがあると思う。そういう意味を薄々感じた時に「うるせぇよ、ほっといてくれよ」「どうせ自分は駄目なんだよ」とかいう気持ちが生まれてきたりしうる。しかしこの命題をそういう意味で捉えるのは「生は価値であり、成功は価値だ」との前提がある。大人になるのが辛いのは当たり前だ。お前は甘いとか世間がわかってないみたいな(笑)。しかし長く生きるとか成功するとかは人間にとっては価値かも知れないが、天や神様にとっては多分価値ではないように思う。だから天や神様の存在を前提としてもこの命題の真偽はわからないと。

じゃあ天や神様にとっては何が価値なのかと言えば、よくわからないが、多分過ごすこと、何かを経験しつついろいろなことを感じることじゃないのかと思う。例えばいじめられて学校や仕事に行かず家に引きこもってたとする。社会的には全くの価値がないとされるものかもしれない。だが本当に価値がないのだろうか。今仮にその状態にある人はよく考えてみて欲しい。確かに問題はあろうが、何か感じるものはあるでしょう。それは生まれて来なければ味わえなかった。だからそれは価値じゃないのかねぇ。

ともかく人間は社会以外に生きる場所がないから社会のことしか頭にないけど、社会とか儚いものでもあるだろう。この前の東日本大震災とかはその一端を見せたものだか、太平洋に大きな隕石が落ちたりしたらあんなのじゃ済まないんだから。でも東日本大震災で死んだ人の人生が価値がないかと言えば全くそうじゃない。価値は長いとか成功したとかにあるわけじゃないからね。

まあこんなこと言ったら相当突き放しているようにも見える。人間の生の長さとか成功とか価値じゃないとか言ったら、いじめによる自殺や引きこもりを推奨してるようにすら見えるかもしれない。しかしこう言ったら逆に楽にならない?何で死ぬ必要があるの?まだ与えられた命があるなら死ななくていいじゃん。死ぬのは自分の中で成功=価値が前提されているからじゃないかなあ。このままじゃ成功しない、みんなにも馬鹿にされる、だから死ぬみたいな。でもそれは一人相撲に陥っている危険がかなりある。天や神様はいじめられてふさぎ込んでいるあなたも許容してるよ。だってそれも感じることであり、経験であり、生まれて来なけりゃなかったものだから。あなたの命はあなたにしかない。だからその与えられた命と時間でもっといろんなことを感じて経験する方がいい。いじめられてふさぎ込んでいるカッコ悪い自分、それを一旦受け入れて、じゃあ自分は本当は一体何がしたいんだろうかと考える。おもしろい漫画を書きたいとかおいしいケーキを作りたいとかかもしれない。外国に旅行したいとかかもしれない。困っている年寄りや子供を助けたいとかかもしれない。例えば児童虐待された子供を支援するnpoとかも人が足りてないんだから。むろん中にはこのままずっとボーッとしておきたいとかいう人もいるだろう。でもしそうなら今はそれでいいんだろう。でもともかくそうやってやりたいものが見えたらそれをするために必要ことというのが見えてきて、あなたはあなたの人生を作り始めるんだよ。まあボーッとするはヤバいと言えばヤバいけど、プレッシャーがなくなったら選ばれることがかなり少なくなる。十分休めば動きたくなるのは生物だけでなく物質一般にすら言えることだから。いつも自分を追い詰めたらずっと寝ていたいとかなるかもしれないが、◯◯しなきゃならないの呪縛から解放されて本当にずっと寝ていたら動きたくなる。ほんでそこで自分がしたいものを考えてみるんだよ。この探すということはやる価値があると思う。だってそこがあなたの命の、他の人じゃないあなたの人生の一つのリスタート地点になるんだから。そうやって与えられた時間でいろんなことを感じて経験する、これが人間が自分の人生を作っていくということじゃないのかなあ。天や神様が仮にいるとすれば価値を置いてるのはそこであり、単に長生きすることとか社会的に成功することとかじゃないと思う。

まあいいや。よくわかんなくなってきた。でもいじめられたらやっぱり不快だからその不快から逃れたいと思うのは普通だと思う。そこで今日の本題の「いじめは天の与えた試練」という命題に戻る。上記したようこの命題は絶対的に正しいかはわからない。だから強制されたものではない。従っても従わなくてもいい。しかしここからまた一つの展開が出てくる、つまりこの命題について最も重要なのは天や神様とかがいるとかいないとかこの命題に従うべきだとかインチキだとかじゃなく、これをどう生かすかということなんだよね。この命題自体を絶対的な価値を持つものではなく、言わば一つのニュートラルな機械のように捉えることができるんじゃないかということね。だって実際この命題を使ってよくなっている人もいるんだから使い道はあると思うよ。

むろん絶対活かさなければいけないということはありません。でも生かせるなら生かした方がいいよね。

 

ちょっと今日は抽象的すぎるかもしれないね。多分まあまあ大きいテーマですからね。だから話をいじめられた場合の「いじめは天の与えた試練」という命題の効用に絞りましょう。

 

しかし時間が……。まだ半分も行ってないんだよ。というわけで続きは近日中に書くことにします。仮に読んでくれてる人がいるとしたら本当ズコーッと思うけど(笑)すいません。本当近日中に書きますから。でも今日書いたのもあまり他の人は言ってないので少しの価値はあるかもしれませんよ。

続き

ブサイク、カッコ悪いことといじめの続きです。このテーマのポイントは

①ブサイク、カッコ悪いからいじめられるという公式は多分ほとんど誤り

②しかしブサイク、カッコ悪いことといじめは親和性はある 

③根本的な原因は大体の場合「3つの理由」にある

④ブサイク、カッコ悪いことは一時的には不利にもなりうる。しかしそれを抜ければ普通の人にはないプラスを得ることができうる

でした。

前回で一応③まで説明したので、今回は④を説明します。

 

まあ前回から「ブサイク」とか「カッコ悪い」とか単純に書きまくってます。それで気を悪くした方もいるかもしれません。そうです、そうなんです、あなたの(仮にいるとして笑)その感覚です。「ブサイク」とか「カッコ悪い」というのは世間が貼るよくわからないレッテルに過ぎず、ブサイクカッコ悪いの前にその人はその人なのです。◯◯君はブサイクでもカッコ悪いでもなく◯◯君であり、△△さんは△△さんなのです。

これは逆らいようがない事実です。生まれた時からそうなっている。おそらく遺伝子工学のレベルで、そうでしょう。「ブサイク」とか「カッコ悪い」とか言う場合、◯◯君は◯◯君であるという一番根本的な事実を簡単に飛び越えてしまってます。しかも不利な価値観を吹き入れている。だから腹が立つのです。気を悪くしてしまうのです。しかしあなた(仮にいるとして笑)のその感覚、感情を時に自分で押し殺してしまうんです。それが「自分はブサイクだからいじめられる」「カッコ悪いから友達もできない」などの弱音です。この弱音は一時的には自分に優しいかもしれませんが、人の前進やレベルアップを阻害してしまうものであると思います。

 

権力志向といじめの観点からわかるように、いじめは友達関係や腕力や度胸の強さにかなり影響を受けます。友達が多くてケンカも強ければいじめられることは基本ないでしょう。そしてこれの逆も、危険性としては言えると思う。友達が少なく或いはほとんどおらず、ケンカも弱ければ、いじめられる潜在的危険性が結構あると思う。

友達がいない、ケンカが弱い、その自己認識は自分にとってきついかもしれません。何故友達ができないのかなあ、性格が悪いのかなあ、自分は変わりすぎてるのかな、そういう運命なのかなあとか考え出したらどんどん深淵に引き込まれてしまいそうです。そしたらもう「自分はブサイクだからいじめられるんだ」「俺はダサいから」とか思い、そこで止めてた方が楽なのかもしれません。

しかしある程度人生を過ごしてくればわかるのですが、友達が少ないとかいないということは別にそこまでマイナスではないと思うのです。大人になればよくいます、やたら知り合いが多くて、それを自慢するような人。明確に自慢したら嫌われそうなのでしないけど自慢したそうな人。しかしそういう人がいい評価を受けてるかと言えばそうでもありません。評価を受けてる人は友達が多い以外のところで見るべきものがある人で、評価を受けてないのは友達が多いだけの人です。やはり友達が多いか少ないか自体にはほとんど意味がないのだと思います。

学校や職場は閉じた世界ですので、その中では友達の多い少ないはいろんな面で影響を持ってきます。しかしいじめとの関連で言えば、そこで卑屈になるかどうか、ここに大きな分岐点があると思うんです。卑屈になればやはりいじめられやすくなる。野性の動物の間でもいじめがありますが、その種類のいじめに似てるんですかね。権力のある者が権力のない者を痛め付けて、己の優越性を感じる快感を得るみたいな。卑屈になるのはいじめる側からすれば一種のokサインに見えるのかもしれない。だからどうでもいいからまず卑屈にならないことが重要なのではないかと思います。

でもいじめが始まってたらもうどうしようもないかもしれない。今更毅然とすれば却ってひどくなるかもしれない。そういう時は本当辛いかもしれない。しかし私達は人間です。動物は認識力や想像力が基本強くないので事態に巻き込まれるだけですが、人間はその事態の真相や理由を知ることができます。それを知ることは痛みを柔らげるだけでなく、次なる未来を示す光ともなり得ると思うのです。例えば友達が少ないどころじゃなく一人もいない、このハードモードであるとします。学校や職場で居場所がないような感覚です。休み時間でもすることがない。口をきくということがないみたいな。しかも公的な目がないところでいじめる奴に会えばまた変なことされる。これは確かに辛い、たまらないものだと思います。しかしそれでも自分は生きてるんです。その学校でも職場でも。心臓も打ってるし、知覚も記憶もある。人間が生きて精神活動もするにはものすごい機構が必要なんですよ。数えられないくらいの細胞が動く、しかも正確に動く必要があるんです。ある意味奇蹟です。それは自分の大事な人が死んだときわかると思います。その忌まわしい学校や職場でも自分は生きてるんですよ。そう考えれば何だか自分が少しかわいく思えませんか?そして家に帰ったら自分の好きなことに時間を使ったりもできる。食べる物も一応ある。着る服もある。寒ければ暖房をつけたりできるし、暑ければクーラーもある。ならばいいじゃないですか。友達が一人もいなくとも、仮にいじめられていようとも、それでその人自身が奪われるということにはならないんです。どうしても耐えられなければやめてしまえばいい。学校など行かなくても思うほどの不利益はありません。重要なのは生きていく力であり、それがなければ学校に全部行き結構いいレベルの大学を出たとしても、結構厳しいです。また職場でも、本当にどうしようもなくなれば生活保護があるんです。生活保護に安住することにはいろいろな意見もありましょうが、苦しい時に一時的に生活保護に頼るのは恥でも何でもないと思います。

そして生きていく力を得るためにまず有用なのが自分を愛することだと思います。自分を愛することにより、自分に興味が持て、自分の強味がわかり、それが素質の発見につながります。それがどのように職業に結び付くかと言えば、また果てしなく広大なテーマに入ってしまうので今日は書きませんが、友達がいるとかいないとかが本質的な問題でないことは感覚的につかんでもらえるのではないかと思います。

自分はブサイク、カッコ悪いからいじめられると早合点することはある意味楽ですが、全てをそこでストップさせてしまう。多分ブサイク、カッコ悪いからいじめられるよりは、友達が少なくケンカも弱いからいじめられる、こう思った方が正しいことが多いと思います。しかし友達が少ないことは稀な個性を持ったことの裏返しであることも少なくないと思う。そこに生きるヒントが隠されているのではないでしょうか。そこにある自分の個性を伸ばせば普通の人には味わえない人生を作れるかもしれません。

 

今回はちょっと適当に書きすぎたかもしれませんが、「誤解を受けない」ことをモットーにすれば、すごく回りくどくて結局よく伝わらないものになりそうだったのでこう書きました。でもその分、何か本とかには書いてないようなことも書けたと思います。

最後に今日書いていることの歴史上の一例を挙げましょう。

現在フランス国民に一番尊敬されている人は誰か知ってますか?フランス国民だけでない、全世界に多くのファンを持っている人です。ナポレオン・ボナパルト、いわゆるナポレオン一世ですね。でもナポレオンは10代の頃入った陸軍士官学校ではほとんど1人か2人しか友達がいなかったんですね。ナポレオンは地中海に浮かぶコルシカ島という所から出てきたんです。超田舎で言葉のイントネーションもおかしい。そして当時の絵が残っているのですがナポレオンは色が黒くて背が低い。当然メジャーなグループには属さず、どちらかと言えばクラスメートにバカにされるような存在でした。しかしナポレオンはそこで腐ったりしなかった。「俺はブサイクだからいじめられるんだ」とか「俺は友達がいない。価値のない存在なんだ」とかは言いませんでした。士官学校時代はともかく自分が好きだった数学、歴史、地理の勉強研究をしました。それが後のナポレオンの想像できないくらいの飛躍の基礎の一つとなったことは少しナポレオンのことを勉強すればわかります。まあナポレオンは時代の落とし子でもあるので、誰でもナポレオンのようになれるというわけではありませんが、人生の方向は自分で選べることの一例を示すことはできると思います。世界で何番くらいに尊敬されているような人でもそうなんです。友達がいないとかいじめられてるとかで今は辛い人でも大きく羽ばたくことはできうると思うんですね。

 

 

ブサイク、カッコ悪いことといじめ

文章がわかりにくいかもしれないので、今回からはテーマのポイントを先にまとめます。

 

①ブサイク、カッコ悪いからいじめられるという公式は多分ほとんど誤り。

②しかしブサイク、カッコ悪いことといじめは親和性はある。

③根本的な理由は大体「3つの原因」にある。

④ブサイク、カッコ悪いことは一時的には不利にもなりうる。しかしそれを抜ければ普通の人にはないプラスを得ることができる。

では以下それらを説明します。

 

よく半ば諦めた感じで自分はブサイクだからいじめられる、カッコ悪いからいじめられるというような声もあります。ブサイク、カッコ悪いとは顔が美形ではない、体型がモデルみたいでは全くない、運動神経が悪い、性格が暗い(と言われる)、その他いろいろの現代の日本では好ましくないとされてそうな属性のことだとしましょう。しかしこれらが直接いじめの原因となることは見かけよりはかなり少ないと思うんです。

例えばブサイク、カッコ悪いでもいじめられてない人はたくさんいる。いじめる側の人がブサイク、カッコ悪いことを嫌いいじめるのならばブサイク、カッコ悪い人は基本的には全員に近くいじめられるでしょう。しかし現実にはブサイク、カッコ悪いでもいじめられてない人がいっぱいいる。 もっと端的に言えばいじめられてない人の方が多い。これを軽く見逃すのではなくて、しっかり捉えた方がいい。その方が解決に近付く。

多分ブサイク、カッコ悪いからいじめられるという公式はほとんどの場合で誤りだと思うんです。

 

でもブサイク、カッコ悪いことといじめには一定の関係性はある。促進材料になりうるので親和性があるということになる。

ブサイク、カッコ悪いのは弱っちく見えることが多い。友達も少なく、ケンカも強くなく、性格が大人しく、反撃による害を被る危険が少ない、そう見えやすい。そうでないとしても、いじめる側はそう見る。だからいじめられやすくなる。

しかしそうだとすれば原因はブサイク、カッコ悪いことにあるんじゃないよね。「ブサイク、カッコ悪い➡いじめる」ではなく「何か他の理由がある+ブサイク、カッコ悪い➡いじめる」なんだから。例えばブサイク、カッコ悪いでも親が暴力団や半グレの幹部だったら? まあ多分いじめられないよ(苦笑)。ブサイク、カッコ悪いが原因なら親が暴力団でも関東連合でも基本はいじめられるよ。

でこれも一つの示唆になるんだけどかわいい、カッコいい人でもいじめられることがある。学校行きながら芸能活動してた人が昔いじめられてたとか言うことあるよね。焦点がブサイクやカッコ悪いから移ってくる。

じゃあどこに原因があるのか?多くの場合「権力志向」にあるんじゃないかと思う。例えばブサイクカッコ悪いでも友達が多くてみんなに慕われているみたいな人がいじめの被害に会うことはかなり少ない。もしその理由を傍観者に聞いたら「あいつはブサイクだけど性格がいいもん」と答えるかもしれない。しかしそういう人が必ずしも性格がいいとは限らない。人の悪口ばっか言ってたり、隠れて万引きや騙しみたいなことしてる場合もある。「性格がいいからいじめられない」じゃない、多分。友達が多いとかケンカが強いなど「一定の権力があるからいじめられない」こっちの方が的確だと思う。先の親が暴力団とか半グレの人がいじめられないのも説明しやすい。

ブサイクカッコ悪いけど友達の多い人をいじめたら、いじめる側はその友達たちも敵に回すことになる。直接の対立(ケンカ売られたとか)があればそれでもいじめるかもしれないけど、普通はいじめない。集団の権力構造の中で不利になる危険があるからしたくないんだよ。

権力志向がいじめとして現れる時、そこにあるのは「自分の方が偉い、上」という心性だと言える。この権力志向にギャグ(何かおもしろいことないかなという心性)や農民気質(あいつ変わってるよな、キモくない?という心性)が加わっていじめが起こる。そしていじめる側もいじめられる側も「ブサイク」「カッコ悪い」という間違った理由を挙げる。ブサイク、カッコ悪いは関係なくはないが、主役ではない。主役はもっと対流的な部分にある。これは現実的じゃないでしょうか。しかしこれが現実的ならブサイク、カッコ悪いからいじめられると思っていれば問題は解決しないことの方が多いんじゃないでしょうか。

 

ちょっと長くなってきてしまった。まだ半分くらいしか行ってないから。しかもここから先の方が重要。というわけで今回のテーマも分けて書くことにします。

3つの理由

①権力志向②ギャグ③農民気質、今のところ、この3つがいじめの主原因と思います。むろん他の原因もありうるし、特殊な具体的事情が決定的な原因となっている場合もあるでし。厳密には、いじめの原因は「ケースバイケース」としか言えないのかもしれません。一つ一つの事象を大事にすればするほどそうなる。しかし「ケースバイケース」というだけでは何も解決しないんだね。何の指針にもならない。

いじめは、強烈なものであったとしても、何か「曖昧模糊」としたものでもあると思う。公式的に行うことはしない(できない)し、何らかの正当な根拠や生産的利益を目指して行われるものでもない。人と人の間の空気が険悪になり、そこから生まれる態度や行動が重なることにより徐々に「いじめ」という悪魔の城みたいなものが出来上がるんじゃなかろうか。

でもそういうものだから、いじめの被害者は本当怖いと思います。被害者じゃない人も仮に自分がいじめられる側に回ったらと考えたらかなり怖いと思う。何だかわからない全体的な圧力や対立感が自分に向かって襲いかかってきて、大抵の場合自分より友達が多かったり腕力が強かったりする相手が「敵」として立ってるんだから。地震とか台風に類するどうしようもなさすら感じるかもしれない。でもその相手が何故「敵」として立っているかは単なる自然現象ではないと思う。相手はいろいろ言うでしょう、「おまえは◯◯だから△△」みたいな。だからいじめられる、みたいな。しかしこれが当たっていることはほぼないと思う。◯◯でもいじめられてない人はたくさんいるし、また仮に◯◯な人がいてもそれを指導する権利などあるわけないとは当然以前の当然としてわかると思うからです。つまりそれは口実です。端的に言えば気に食わないからいじめてるんだよ。で何故気に食わないかと言えば大体上の3つの理由のいずれかと思うのです。そのエネルギーがいじめを生む、そう思ったのです。

 

3つの理由を先に挙げることには「理論的みたいなことを知ってもしょうがない」という反論もあると思います。でも僕はこの3つの理由を挙げることには意味があると思います。

まず先にも言ったようにいじめはいじめる側にとってもいじめられる側にとっても本来空気のようなものであり、それが何故そこにあり、気持ち良くない状況を作るのにもかかわらず何故続くのか、よくわからない。よくわからないから統制できない。だからいじめる側もいじめられる側もいじめという渦に飲み込まれやすい。いじめる側は多少学校的に、

また親的に問題になってもいじめをやめられず、いじめられる側はともかく怖い、自分が嫌になり時には死にたくなるくらいの気持ちになる。いじめが悪魔の城のようなよくわからないものである結果、どちらもいじめという状況に圧倒されやすい、ということだと思う。でもこの3つの理由を知れば圧倒されにくくなると思うんです。孫子兵法書に「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」というのがありますが、この3つの理由を知ることは「敵を知ること」の一環になると思う。圧倒される必要はないんです。①権力志向②ギャグ③農民気質、大体この3つのいずれか或いはミックスなんだから。どれもあまり価値あるものじゃないよ(ギャグは価値ではありうるけど他人を傷付けて得る面白さなんて価値ないよね)。いじめる側が自分は偉そうにしてるけどその理由が上の3つに過ぎないとわかれば、いじめをやめやすくなるんじゃないでしょうか。「もうこんなバカらしいことやめて他にすること探そうぜ」となりやすい。いじめられる側も過度に自己否定する必要はなくなる。自分がブサイクだから、いけてないから、カッコ悪いからいじめられるという図式が誤りとわかるんだから(いじめとブサイク、いけてなさ、かっこ悪さについては近いうちに改めて書きます)。いじめに圧倒される度合いが減るから、自分のすべき道が前よりは見えやすくなるんじゃないでしょうか。

一番いいのはいじめる側がいじめようとか思わなくなることであり、いじめられる側が多少向かい風が強い時期にも自分を見失わず自分の人生を歩いて行けることだと思う。しかしそのためには学校機構や法律上の権利義務など外部から力を加えるだけでは足りないと思う。

まあこの3つの理由が当たっているかどうかはわからない。でも厳密正確に理由を追求すればそれだけで終わってしまうので、さしあたりこの3つを主原因と思って以降の考察を進めて行きますね。理由を変更追加する必要が生じた場合は追加変更するかもしれません。

 

 

農民気質の続き

農民気質の現れ方にはいろいろあると思うけど、いじめとの関連で重要なのは次の2つだと思う。

①違うものを嫌う。②憶測で動く。

 

昔の農村は過酷な自然と戦ってきた。また横暴な統治者というのも少なくなかっただろう。だから一致団結というのが非常に重要だった。腹の中でも違うことは考えない方がいい。心は表情や行動に出るからね。特にいざという時の行動には出やすい。だから同じ考えを持った人は「仲間」であり、違う考えを持ってる人は「ちょっと変わった奴」、そしてその度合いが強ければ「村八分」。昔の日本では個人の尊厳とか全く知らないものだったし、本質的な発展のためには異質なものが必要とかいうことも知らなかった。だから違う考えを持った人は集団の和を乱すだけの存在なんだよ。違う考えを持つ者は単なるやっかいであり、嫌われた。農民気質においては他と違わないという本来消極的な基準が、いい人を決める積極的な基準として作用しやすいところもあった。これが大体①の説明。

 

でもいじめとの関連でより重要なのは②と思うんだよな。憶測で動く。

農村ではみんなが協力しなきゃならない。だから「表面上の平穏」というのが非常に重要になる。違う者は嫌うとか言っても、一人一人が別の人間なんだから完全な一致は望めないことはみんな何となくわかっている。だから「表面上の平穏」で満足しなければならないのだが、これは必要なんだ。表面上の平穏があるから一応みんな協力して、生産ができる。

だから表面上の平穏があればまあいいんだけど、それは仕方なしに選んでいる不安定なもの。表面上の平穏を維持しつつ将来の争いの種を排除せねばならない。そこで登場するのが「憶測」なんだよ。例えば「あの人はああしてるけど実は~~と思っている」とか「あいつは前◯◯とか言っていた。あいつは本当は△△と思ってるよ」とか。それでその認識に応じた態度行動をとる、これが「憶測で動く」ということ。

日本は島国なのでこれが普通と思ってるかもしれないが、多分普通ではない。むろん普通の推認作業なのでこれは誰でもやる。だから程度の差とは言える。しかし例えばロケットの研究で世界的に結構有名だった糸山英夫教授がアメリカのシカゴ大学で講義した時、生徒が途中からどんどん立ち上がって意見を言い、しかも反対意見の方が多かったので大変だったと。似たようなことは他のアメリカの大学でもよくあったと。でも日本の東京大学では何年も教壇に立ったんだけどそういうことは一度もなかったって。学生は黙々とノートを取ってるだけで、こちらから「何か質問は?」と水を向けても聞き損なった学生が確認のために手を挙げるだけだったと。

意見の表明もしないし、意見を求めない、ここに違いがある。アメリカじゃわからなければまず聞くんだよ。自分の意見を表明し、相手の意見を求める。これはヨーロッパでも同じ。しかし日本では自分の意見も表明しないし、相手の意見も求めない。相手の意見を聞いた上で判断するのと意見も聞かずに判断するのには差があるよね。これが、「空気を読むことの必要性」が特に日本では強いことにも繋がるのかもしれない。むろんアメリカやヨーロッパでも空気を読むことの必要性はあるけど、日本ほどウェットではない。そういう意味では日本人は人の文句を陰で言うことが非常に好きなような気がする。アフリカ研究で有名な白戸圭一氏も日本のインターネット空間の暴力性は異常と言ってる。インターネットで人を罵倒したり貶めたりするのは陰口と一緒だから。実際話せばそこまで対立的でないということがわかるのに、それをやらないで決めるからそうなりやすい。

でも僕はアメリカやヨーロッパが良くて日本がダメだとか言ってるんではない。だってそんなこと言ったら現実的に効果的なブログにはならないから。例えば明日から日本人はダサいとか言ってどんなところでもまず自分の意見を表明し相手にも意見を求めるとかしてたら、バリバリいじめられてしまう可能性が高い。日本がこうなるのには理由があるんだよ。前項でも書いたけど、昔は機械もない、肥料もない、科学的知識もほとんどない、社会保障もない。強い品種なんてものもなかったし、経済機構が弱かったので豊作の時に儲けて貯金するなんてこともできなかった。そしてお上には武士という者がおり、ちょっと変なことわやったら日本刀でぶった切られたりしていた。そんな中でこの自然災害も多い日本で毎年食えるだけの確実な生産をしなくちゃならなかった。その状況下では違う者を排除し、表明上の平穏と争いの種排除を両立させるものとしての「憶測で動く」ことが必要だったと思うんだ。

 

でも今は昔の厳しい農村社会じゃないんだな。

ちょっとみんなと違う人に対して、「あいつ変だよね」「キモいよね」とか言うことはこのリアルな21世紀でもよくあると思う。でもちょっとみんなと違うというだけで他の人にそういうことを言うのって、まんま昔の日本の百姓じゃない?別に違っててもいいじゃん。だって性格とか感覚が違うのは当たり前だし、またそういう異質なものがあるからこそ発展が生まれるんだよ。でも違ってたら多分落ち着かないんだよね。僕も日本人だから結構わかるところもあります。落ち着かないし、からかいたくなる。その心の動きは一応わかる。まあ今実際いじめられている人には不謹慎だと言われるかも知れないけど、そういう人も仮に今いじめられてないとして考えてみてよ?いじめられてない、みんなとうまくやっている、そして集団にちょっと変わった子が入る。「何?あの人少し変わってるよね」とか言ってクスクス笑いたくならないだろうか。ちょっと何かの偶然で素っ気ない態度されたら「あいつふざけてんな」と若干思わないかなあ?少なくともその心の動きは一応わかる人が大半だと思うのよ。多分DNA引き継いでるんだよ。

でも今の日本人は自分を百姓とは思ってないし、思いたくない。だからいじめの根底にこの農民気質があると知ることはいじめをなくすために有効と思うんだ。いじめている側も「キモい」とか「ふざけてる」とか言う時に、ひょっとしたらこれは農民気質の名残じゃないのかと思えばストップがかかりやすい。そしていじめられている側も「キモい」とかネットで言われても、これは昔の百姓の人達が言ってることと大差ないとわかれば、心傷付く度合いは減ると思うんだ。かなり減ると思う。

このようにいじめの根底に第三のパワーとして農民気質があると知ることは役に立つと思うんだな。

 

 

農民気質

 

 

とりあえず思ういじめの主原因の3つめ。それがこの農民気質です。

 

日本はアメリカとか英仏独よりいじめが多いような気がする。ちゃんと調べたわけじゃないし、また仮に調査資料があったとしても実態を反映している保証もないので(生徒が自殺してもいじめはなかったとか言う学校がある位だから調査資料が実態を反映していると考えるのは短絡だよね)、結局勘なんだけど。しかし、何と言うか、ジメッとしたところはあるよね、日本人。ウエットと言うか。それ自体はプラスでもマイナスでもないと思うの。ウエットと言うのは情緒的なものを重視するとか、ストレートより婉曲な表現を好むということだから。「おくゆかしい」とか日本人の言う「おもてなし」とかはウエットな感覚を基礎としていると思う。でもこのウエットな感覚が農民気質と結び付けば、いじめ多発の現象にもつながりやすいと思うんだ。

日本はずっと農耕社会だったよね。商業も少しはあったけど、江戸大坂京とか長崎博多尾張など有名都市以外はほとんどがすっげぇ農村だったと思う。
で今でもすっげぇ農村というところはあるんだけど、「田舎の生活に憧れる」と言う人がいる一方、「田舎は閉鎖的で人間関係が難しい」と言う人も多いよね。でどちらかと言えば後者が主流と思う。だから田舎は人口激減で、その存続自体がヤバくなってきてるところがいっぱいある。でも昔は上記したよう日本のほとんどがすっげぇ農村だった。街灯もない農村に行ったら怖いんだけど、昔は日本のほとんどがそんな感じだったんだよ。だから昔は日本のほとんどのところが「閉鎖的で人間関係が難しい」場所だったんじゃないかと思うんだ。
で何で農耕社会が「閉鎖的で人間関係が難しい」ところになるかと言えば、少なくとも昔の農業は本当にみんなが協力する必要があったからだと思うんだ。機械もないし、化学肥料もない。生産の基礎となる科学知識も乏しく、自然災害等のイレギュラーな事態になった場合の社会保障もない。サバイバルだよ、本当。でそういう状況下でみんな一生懸命やってるのに一人だけ「そのやり方は違う」とか「俺はそんなの嫌いだ。俺はこうする」とか言ってる人がいたらどうする?困るよね。一人分だけでも労働力が減るし、それに同調する人間が出てきたらもっとヤバい事態になってくる。だから昔の農村はそういう人間を排除する必要があったと思うんだ。で事前にその危険の有無を確かめるためにもお互いがよく知っておく必要があり、また知らない他人は入れたくない。こうやって農村の「閉鎖的で人間関係が難しい」という性質が強められたと思うんだ。
で、ここからが本論なんだけど(笑)、現代でも「日本人は横並び意識が強い」とか言われるよね。某コンビニチェーン帝国を築いた前会長は「今は多様化の時代と言われるが……(中略)私が商売を通じて見る日本人の姿は明らかに画一化の時代です。…(中略)日本ほど画一化の国はありません」と言っている。横並び意識、画一化、これを言い換えれば日本人はみんなと一緒であることに安心し、みんなと違うものに不安感や忌避感を覚えるということだよね。ということは、今現在のリアルな事として、日本人に農耕民族のDNAが強く存在しているということではなかろうか。現代の日本人は一方では「いじめはよくない」と言いつつ、隠れて(時には堂々と)いじめのようなことをやってる。そういう矛盾的な事を、ある意味当たり前のものとして健康に、行っている。これは日本人に農耕民族のDNAが今でも色濃くあることじゃないのかなと思った次第です。
まあいいや。農耕民族少し長くなって来たから分けて書きます。今日はここまでにしときます。

ギャグといじめ

「権力志向」と並ぶ、いやもしかしたらそれよりも強い原因であるかもしれないと思うのが「ギャグ」です。権力志向は「いじめるのがおもしろい」ということでいじめを現存させるのだが、ギャグはそれに加えて「おもしろいものを見たいから」という形でいじめを現存させもする。ただ、ただ、おもしろいんです。

いじめの原因がギャグとか言ったら「不謹慎」と言われるかもしれません。いじめられる側は大変であり、その原因がギャグとか言うのは完全にいじめる側の立場に立ったとらえ方だと……。

しかしいじめの定番の一つに「裸にする」というのがある。トイレとかで脱がされたりして。ひどいいじめの部類だよね。でも某江頭氏は自分でそれやって人気出てる。また悲しい会社の世界では宴会盛り上げ役でほとんどいつも脱いでるおじさんが本当にいる。少し前、芸能プロの社長が社員の顔を鍋につけて問題になったけど、これも同じかな。人が予想を越えた変なことをする、これが単純におもしろいんですよ。

いじめが存在するには理由がある。理由はいじめる側、いじめられる側、傍観する第三者から紡ぎ出される。「おもしろいものが見たい」といういじめる側の欲求にいじめられる側が屈服し、第三者が傍観を決めればいじめが現出する。この場合いじめの主原因はギャグと言えるのではないだろうか。

 

この問題は実は深い。日本の文化全体に関わる面もある。例えばダウンタウンみたいなのがいじめの促進になりやすいとは言えると思う。人をバカにしたり、人を傷付けたりすることに面白味を見出しているから。しかしダウンタウンは日本のお笑い芸人の中では王様に近い。人をバカにする、人を茶化す感じで傷付ける、これは人と人の間の序列みたいのを破壊するので人に一種の爽快感を与えるのかもしれないと思う。だとすれば日本の社会はやはりみんな言いたいことも言えず、抑圧性と序列制度が強い社会なのかなと思ったりもする。例えばアメリカとかはお笑いと言ってもシケギャクの連発で日本みたいに自分を貶めたり、他人をいじめたりするみたいのは少ないからね。やっぱ日本の社会は全体に閉じてるんだよ。

だがいずれにしろ言えるのはここでダウンタウンを否定したり、日本の社会はダメだとか言っても仕方ないということ。日本で生きて行くことを選択する限りではそうだと思う。

少し話がずれたけど、このようにいじめとギャグの問題は強い上に結構深い。でも、そうだからこそギャグとのつながりを見切ることはいじめられる側にも様々な戦略を与える端緒になると思うんですよ。